ビートルズの武道館公演を実現させた陰の立役者たち  vol. 22

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苦境を脱した東芝レコードの燃ゆるような再出発~ティーンエイジャーや若者のマーケットが誕生~

苦境を脱した東芝レコードの燃ゆるような再出発~ティーンエイジャーや若者のマーケットが誕生~

第3部・第21章

経営の危機にあって苦しんでいた東芝音楽工業の常務、石坂範一郎にとって、「SUKIYAKI」の大ヒットという海外から射してきた希望の光は、思いもよらぬ輝かしい栄光をもたらすことになった。それは大きな名誉だけでなく、十分な実利をともなうものであった。東芝音楽工業には海外から多額の原盤使用料が、半年後に入金することが判明したからだ。

さらには範一郎が前の年に定款を変えて社名変更した100%子会社の東芝音楽音楽出版株式会社にも、著作権使用に対する海外からの印税が入ってくることがわかった。日本とは違ってアメリカではレコードの売上だけでなく、放送局の使用回数によって支払いが発生する。1ドルが360円の固定レートだったから、全世界のレコード売り上げやオンエア回数による使用料が入金になると、相当な利益が入ることが判明した。

そうした状況が見えたことで9月20日に急遽、臨時株主総会が開かれた。そして親会社にまで「最悪人事」と不評を買っていた岡本社長が退陣し、範一郎の再建案を支持していた親会社の専務取締役で石坂泰三の懐刀的な存在だった久野元治が、兼任の形で取締役会長に就任したのだ。社長は空席のままとされ、範一郎は引き続き常務取締役にとどまることになった。また東芝商事から新たに酒井輝雄が、営業部門の担当として常務取締役に加わった。

これは泰三の命を受けて東芝にグラモフォーン事業部を立ち上げたときと同じく、久野・石坂という体制に戻ったことになる。経営の責任者として全幅の信頼がおける久野のもと、範一郎はエグゼクティブ・プロデューサーとして思うように腕をふるえる環境になった。もちろんそれを陰でサポートしていたのは、泰三であったに違いない。

『東芝音楽工業株式会社10年史』には範一郎の気持ちを表すような、清々しい記述が残されていた。

久野会長は、失われたレコード業界の信頼を取り戻すため、また当社の新しい発足のために、全国のレコード特約店から、当社のレコードの無条件返却を受け入れることを宣言した。旧い病巣をすべてとり除き、新しい営業路線を敷くためとは言え、返品レコードの無条件受け入れは、業界のすべての刮目するところであった。ここに再建東芝音楽工業株式会社の苦しいながら希望を前途に持った、燃ゆるような再出発があった。
(『東芝音楽工業株式会社10年史』)

臨時株主総会の翌日、範一郎は57歳の誕生日を迎えている。この文中にある“希望を前途に持った、燃ゆるような再出発”を支えていたのは、「上を向いて歩こう」の世界的なヒットから得られた自信であったはずだ。日本の楽曲の可能性を信じて果敢にアプローチしたことが、世界的な成功に結びついたのである。

海外で出来つつあったティーンエイジャーや若者のマーケットが、日本の楽曲を認めて受け容れた。それは新しい時代の到来を告げるものだった。そこから得られる多額の外貨もまた、日本の音楽産業においては史上初の快挙だった。そしてここでひとつ、泰三から与えられていたミッションを果たしたことにもなった。日本で生まれた日本語の歌が全世界にヒットしたのである。

日頃から日本の経済や文化、あるいは工業製品が世界に通用する姿を待ち望んでいた泰三に、これは良いプレゼントになったはずだ。もちろん楽曲の歌詞もメロディも、そして坂本九の眩しい笑顔も申し分ないものだっただろう。

日本の音楽史におけるミュージックマンとして、石坂範一郎は最初の金字塔を打ち立てたのである。

東芝音楽工業は1964年2月1日、オフィスとして借りていた有楽町駅前の朝日新聞本社のビルを出た。東芝が倉庫代わりに使っていた溜池の古いビルに引っ越したのだ。むろん経費節減と、家賃負担の出費を減らすためだった。そんな心機一転の巻き返しのタイミングで発売されたのが、日本におけるビートルズのデビュー・シングルとなる「抱きしめたい」と、第2弾の「プリーズ・プリーズ・ミー」だった。

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範一郎は当初、イギリスで最初にヒットした「プリーズ・プリーズ・ミー」を、毎月の新譜を発売する定例の2月15日に、第1弾として発売するつもりだったようだ。そして本国のイギリスに倣って、「フロム・ミー・トゥ・ユー」、「シー・ラブズ・ユー」と順に出す計画だったのだろう。

ところが11月29日にイギリスで発売される新曲を、キャピトルが1月中旬にアメリカでも発売するという情報が入ってきた。これまでビートルズの発売を拒否をしてきたデイヴ・デクスター・ジュニアが、いよいよ本腰を入れて取り組むというのである。

デクスターはこれまで「アメリカのマーケットには合わない」との理由で、ビートルズのシングル盤を3枚とも断っていた。そしてその3枚は事実、まったく売れなかった。シカゴのレーベルだったヴィージェイが出した「プリーズ・プリーズ・ミー」と「フロム・ミー・トゥ・ユー」は、ヒット・チャートのHOT100 にも入らなかった。

ヴィージェイがさじを投げてしまったので、今度はスワンというマイナー・レーベルが8月に「シー・ラヴズ・ユー」を出した。だがこれも全くヒットしなかった。

しかるに9月になってロンドンに出張したデクスターは、レコーディングされたばかりの新曲を聴いて、その場ですぐにキャピトルが発売すると返答した。それが「I Want To Hold Your Hand」だった。

範一郎は日本での第2弾にその新曲を繰り上げて、3月あたりに発売することを計画していたのだろう。それに続けて4月にアルバムを出すというのは、当時の期待されたアーティストの定石だった。

一方、ずっと前からアメリカ進出を狙っていたブライアン・エプスタインは、ついにキャピトルが1月14日に発売することを決めたので、それに合わせて2月上旬からプロモーションのためにアメリカに上陸する計画を立てた。メイン・ターゲットは人気テレビ番組「エド・サリヴァン・ショー」への出演である。コンサートも行うつもりだったが、まずはテレビで全米に知られることが最初の勝負だと考えていたのだ。

「I Want To Hold Your Hand」はイギリスで11月29日に発売されると、予想通りにすぐ1位になった。そこで予想外だったのは、イギリスから持ち込まれた輸入盤が、アメリカのラジオ局から流れ始めたことだった。キャピトルがプロモーションするよりも前に、ラジオ局にリクエストが殺到して火がついたのである。これはブライアンにもキャピトルにも嬉しい誤算だった。

全米各地のラジオ局でイギリスからの輸入盤が流れたことで、キャピトルは1月14日だった予定を大幅に繰り上げて、レコードを年内に発売出来るように手配した。そして店からの強い要望を受け入れて、12月26日に「I Want To Hold Your Hand」を緊急発売した。

それが発売後の1週間でなんと80万枚を売ったのである。レコードの製造が追いつかない状態となった。その勢いの凄まじさをキャピトルから教えてもらった範一郎は、現在進行形でアメリカで大ヒットしている新曲「I Want To Hold Your Hand」のほうが、日本でもヒットする可能性が高いと判断したのであろう。1月に入ると前倒しで、2月5日に超臨発の扱いで発売することを決めた。

担当ディレクターの高嶋弘之は「I Want To Hold Your
Hand」では長くて覚えにくいと、あえて「抱きしめたい」という日本語のタイトルをつけた。この直接的なネーミングが新鮮に感じられたことで、ビートルズの日本における成功に間違いなく一役も二役も買ったはずだ。

さらに範一郎は2月15日の予定だった「プリーズ・プリーズ・ミー」の発売日も、10日に繰り上げている。だから実際には2枚のシングルが、ほぼ同時に発売されたような状態だった。それは当時としても、かなり強気の判断だったはずである。

東芝の新譜の資料には「抱きしめたい」が2月5日に発売されたことになっているが、リアルタイムでレコードを買っていた人の記憶では、「プリーズ・プリーズ・ミー」が先に出ていたという証言が多い。それに少し遅れて「抱きしめたい」が発売になったといわれる。実際にラジオのヒットチャートなどでも、「プリーズ・プリーズ・ミー」が先にヒットした後で、「抱きしめたい」が追いかけたという記録が残っている。当時のミュージック・ライフの広告でも、2枚が同時に発売されたと思わせる扱いになっていた。とにもかくにも2月に発売になった2枚のシングルは、東芝レコードの再出発を祝福するかのように両方がヒットしたのである。

→次回は1月12日更新予定

文 / 佐藤剛
最上部の写真:提供 / 毎日新聞社

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。 著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『歌えば何かが変わる:歌謡の昭和史』(篠木雅博との共著・徳間書店)。

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