ビートルズの武道館公演を実現させた陰の立役者たち  vol. 23

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再起にかける東芝音楽工業の救世主となったビートルズ

再起にかける東芝音楽工業の救世主となったビートルズ

第3部・第22章

2月7日、初めてアメリカを訪れたビートルズは、ニューヨークのケネディ空港に降り立った。そこには多くのマスコミ関係者と、1万人にもおよぶファンが押し寄せた。そして2月9日にテレビ番組『エド・サリヴァン・ショー』に出演すると、なんと72%をという信じられないような高い視聴率を上げたのだ。この日こそはアメリカ中の人々が、動くビートルズを目撃し体験した初めての日となった。

彼らが演奏していた10分間に、ニューヨークで青少年の犯罪が1件も発生しなかったというエピソードが生まれた。ビートルズは2月16日と23日にも『エド・サリヴァン・ショー』に出演し、3週連続という特別な扱いでアメリカで最も有名なバンドになっていく。

その間の2月11日にはワシントンD.C.コロシアムで、初の野外コンサートも成功させていた。また翌日はニューヨークにあるクラシック音楽の殿堂、カーネギー・ホールで2回の公演を行った。カーネギー・ホールはビートルズの実態を知らずに、コンサートの使用を許可したらしいが、そのおかげで両者とも名を上げる結果になった。

最終的に「抱きしめたい」は4週間で250万枚を売り、2月1日のビルボード誌でシングル・チャート1位へと登りつめた。発売を決めたデイヴ・デクスター・ジュニアの判断もブライアン・エプスタインの計画も見事に的中し、大きな果実を手に入れた。そして日本も新しい果実を手に入れることになっていく。

なぜならば東芝レコードの久野元治会長が1月19日から3月2日まで、ヨーロッパとアメリカをまわる長期出張に出かけていたのだ。ビートルズを日本で売り出そうとしていた東芝レコードは、アメリカに上陸したイギリスのバンドが前代未聞の反響を巻き起こし、とてつもない成功を収めていく様子を、久野会長自身がリアルタイムで体験したからである。

ティーンエイジャーたちが凄まじい勢いでビートルズに熱狂し、レコードが爆発的に売れているアメリカで、同じ時間と空気を共有していた久野会長はアメリカの雑誌界の最高峰と言われる高級誌、「ニューヨーカー」に載ったブライアン・エプスタインのインタビュー記事も、間違いなく読んでいたであろう。

ビートルズはイギリスの考えうるありとあらゆるエンターテインメント業界の記録を破ったのです。イギリスでは現在最も大きな崇拝と憧れの対象になっている青年たちだと言ってもいいでしょう。彼らには素晴らしいスタイルと湧き上がるような力があり、それが人々の心にとてつもない力で直接訴えかけるのです。ビートルズはロックンロールに似ていますが、けれども特有の別なものです。彼らはまさしく本物で、生命感やユーモアのセンスにあふれ、独特のハンサムな容姿をも兼ね備えているのです。

ブライアンのスマートな容姿、どこか貴族的な品の良さ、そして発言を支えている知性が、教養人の久野会長にも好印象を与えたに違いない。そしてビートルズの音楽がどれほど革新的なものであり、新しい時代の音楽的な潮流を創り出しているかについても、久野会長はキャピトルのグレン・ウォリクス会長はじめ幹部たちの話から理解したはずだ。

アメリカのティーンエイジャーたちは、それまで受け入れたことのないイギリスのバンドに、心から熱狂していた。それはまったく言葉の意味がわからない「SUKIYAKI」から、ほんとうの音楽の良さを見つけ出した感性にも通じるものだった。

坂本九の「SUKIYAKI」のヒットについても、久野会長は詳しいいきさつやエピソードを関係者から聞いたと考えられる。しかも「SUKIYAKI」を発見したキャピトルのデクスターが、初めてビートルズの曲を“売れる!”と判断した「I Want To Hold Your Hand」が、爆発的にヒットしていたのだった。久野会長ならずともその曲ならば、日本でも必ずヒットするという確信を得たであろう。

当然だがそれらの情報は日本の石坂範一郎にも、それほど時間をおかずに伝わっていたはずだった。「抱きしめたい」が急きょ、日本におけるビートルズの第1弾に変更された背景には、こうしたアメリカでの動きが反映されていたのだ。その勢いで日本独自の選曲によるファースト・アルバム、『ビートルズ!』が4月15日に発売されることになった。

これだけ矢継ぎ早に2枚のシングルとアルバムを発売したのは、絶対にヒットするという確信があったからだろう。それはキャピトルからリアルタイムで手に入れた最新情報の数字と、ヒット曲を発見するデクスターの判断への信頼とに導かれた答だった。

こうしためぐり合わせから始まったビートルズの売り出しと、ティーンエイジャーたちの鋭い反応に、二人は東芝レコードの再建に向けて大きな希望を見出したに違いない。

その後もアメリカではビートルズの勢いがとどまるところを知らず、4月4日には全米チャートの1位から5位を独占するという、おそらく二度と破られることがない記録が生まれていた。それに倣ってではないだろうが、東芝レコードも4月25日にビートルズのシングル盤を同時に3枚発売している。これはそれまでの常識を覆す、大胆で思い切った販売方法だった。

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「キャント・バイ・ミー・ラヴ」は映画『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』の中で、効果的に使われたポールの初期のロックンロールナンバーだ。「フロム・ミー・トゥ・ユー」はイギリスでの3枚目のシングルだが、カップリングは日本独自の選曲だった。そして「ツイスト・アンド・シャウト / ロール・オーバー・ベートーヴェン」の2曲も、日本とアメリカだけで発売されたシングルである。AB面ともにカヴァー曲だったが、いまではオリジナル以上に有名になった。

こうした強気の商法は、アメリカでビルボードのHOT100に12曲ものシングルがヒット・チャート入りしたという、当時の凄まじい勢いに背中を押されていたのであろう。『東芝音楽工業株式会社10年史』によれば、当時のビートルズのレコードは生産が追いつかないほど売れたという。

昭和39年2月、ついに「ビートルズ」レコードの第一弾OR-1041「抱きしめたい」が、当社よりオデオン・レーベルで臨発された。この「ビートルズ」の4人組即ち、ジョン ・レノン、ポール・マッカトニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターによる自作自演の天才的なリズム、メロディーは、彼らの演奏するエレキ・ギターとともに、ポピュラー界を揺さぶって、国内若者たちの熱狂的な大河のごときすさまじい支持を受け、一大ヒットを展開した。次に発売した「シー・ラヴズ・ユー」も勿論これまた大ヒットとなり「ビートルズ」の名声は完全に若者たちのアイドルとなって、空前の売れ行きを示した。品切れ、バック・オーダー・プレスの追いかけっこは、当社創立以来はじめてのうれしい混乱であった。
(『東芝音楽工業株式会社10年史』)

ビートルズは東芝レコードにとって、救世主と言っていい存在になったのである。

→次回は1月16日更新予定

文 / 佐藤剛
最上部の写真:提供 / 毎日新聞社

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。 著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『歌えば何かが変わる:歌謡の昭和史』(篠木雅博との共著・徳間書店)。

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