ALFA MUSIC LIVE Special  vol. 5

Interview

村井邦彦 ライブ直前インタビュー

村井邦彦 ライブ直前インタビュー

「アルフアには、メソッドはなかった。なんとなく自然に集まってきた仲間の中で流れてきた。あるがままってこと、ですかね・・・」(村井邦彦)

村井邦彦。今回のALFA特集の主役にして、創業者。作曲家として音楽キャリアをスタートさせた後、レーベルのリーダーとしてアルフアというブランドを、日本はもとより、世界中に知らしめた伝説の音楽家/ブロデューサーである。先に行われたALFA MUSIC LIVE出演の為に、LAから一時帰国した村井に話を聞いた。場所は村井がライブに備えてピアノの練習をする都内の某スタジオ。あくまでも、レーベルカラーのオリジナリティーにこだわり続けた村井邦彦の真意、そして音楽への並々ならぬ愛情と知識。極めて興味深い発言の数々。ぜひ、お読みください!

最初に村井さんに作曲家としての原点をお聞きしたいんです。慶応大学のライトミュージックソサイエティに在籍しているころから、すでに作曲はなさっていたんですか?

村井 してました。あの・・作曲の前にまずオーケストラのアレンジをする先輩がたくさんいたので、その手伝いをするわけですよ。ジャズオーケストラの・・手伝いと言っても、例えば写譜だとか、という音の使い方覚えるじゃない?

覚えますね。どういう音の組み立てをするかというのが、譜面でわかりますもんね。

村井 そうですね。それで卒業コンサートで、1曲か2曲、ジャズのオーケストラの曲を書いてます。だから、作曲をすることに興味は勿論あったんですね。でも、ジャズのオーケストラの譜面は学生時代は書けるけど、卒業しちゃったら書くところがないからね。作曲家になるとは夢にも思ってなかったんだけど、レコード屋をやっている時にヒットソングを色々聞いて、こういうのだったら自分でも書けるんじゃないかって・・つてを辿って本城和治という当時のフィリップスレコードの花形ディレクターと出会うわけ。で、彼が発注した曲がいきなりチャートインしちゃった。所謂ポピュラーソング。生まれてはじめて書いたのが、チャートインして・・・

なんという曲でしたか?

村井 ヴィッキー・レアンドロス(女性)というギリシャの大スターですけど、その人が日本に来た時に、日本語で録音した「待ちくたびれた日曜日」という曲が、僕のデビュー作なんですよ。ヴィッキーという人は、その後もユーロビジョンのコンテストがあったじゃないですか。そういうので優勝した、当時スターだった人です。さらにその後、彼女はギリシャの国民的な歌手になって、アテネ・オリンピックの開会式で歌ったりもしました。

最初からワールドワイドじゃないですか。

村井 そうなんだよ。これも因縁ですよね。

で、その後、村井さんはいろいろグループサウンズの楽曲を書いてますよね?先日、吉沢エンジニアにインタビューした時に、これでもう〝作曲家として行けるんじゃないか〟と村井さんが確信を持った時があって、その時に誘われたっていうを話してたんですけど。それはやっぱりテンプターズとかですか?

村井 みんな歳とってるからあてになんないよ(笑)

みんな記憶がおぼろげになってる?

村井 おぼろげでしょ。(笑)僕自身はね、レコード屋をやっていて、作曲家ったって不安定だろうから、そのレコード屋を続けながらとりあえず(曲を)書いていこうと思ったんだけど、「エメラルドの伝説」というのが・・・めちゃくちゃ当たって・・・

ザ・テンプターズの。

村井 それがねぇ、ヴィッキーの楽曲を書いて一年も経たないうちですよ。ほんとに早い時間でドーンと当たっちゃって。

ものすごく多作でしたよね、あの時期。

村井 そうそう。そうなるとね、電話がかかってくるんだよ。いろんな人から・・・渡辺プロ、ホリプロ、NHKとかガーって電話がかかってきて、注文が殺到する訳。そうなるとレコード屋なんてやっている暇が無いと。だから、これで食えるという確信と同時に他のことがやれないくらい忙しくなった。

延々と作曲をしなければならない状況になった。

村井 そうだね。寝る暇もないと。

村井さんのキャリアを見ていて、ライバルとかリスペクトしていた人っていたんですか?なんとなく東海林修さんという存在は、ライバルなのかな?と。村井さんより12、3歳上ですけど・・・

村井 東海林さんは僕の先生だよ。僕ね~音楽学校は行ってないけど、凄く運がいいのは、自分が好きな音楽家と話をするとみんな教えてくれる訳。例えば、ミシェル・ルグランみたいな人とか。東海林さんと初めて会ったのは、僕の曲のアレンジを東海林さんがしてくれて、いい音するからどうなってんだっていろいろ話をする訳です。で、凄い親切だから、自分の書いたスコアを全部見せてあげると。そのスコアを見ながら、彼と録音したものを聴いて、こう書くんだとか。

盗んだんですね。

村井 盗むというか、学んだんだよね。盗むということは学ぶってことだからね。

ほとんど同義ですから。なら、ライバルはいなかったんですか?

村井 ライバルっていうのは・・・作曲家同士というのは、音楽の話しで盛り上がっちゃったりするから、仲良かったんだよね。先輩でも東海林さん、宮川泰さんとか、みんな一緒にゴルフしたり、音楽談義したり・・仲間だね。ライバルっていうのは・・・歌手なんかはあるのかもしれないけど、作曲家って裏方だからさ。仲の悪い人もいるのかもしれないけど、みんな仲がよかったですよ。

作詞家としてやりやすいとか、バイブレーションが合うという方はいましたか?

村井 当時のヒットソングライター全員と僕はやってるよ。なかにし礼でしょ、阿久悠でしょ。阿久悠なんて僕とやったのが、最初の曲だから。

そうなんですか?

村井 「朝まで待てない」という曲。それから安井かずみという訳詞から始まって作詞家となった人。でガミさん、山上路夫さんでしょ、岩谷時子さんとかも。ジュリー(沢田研二)は今でも歌ってるよね。「風は知らない」という作詞が岩谷時子さんの曲。これ隠れた名曲なんだよ。
だからほとんどの人とやったんだけど、いつの間にかガミさんとのコンビが定着して、そのうち一緒に会社始めてね。けど、みんな付き合いあるよ。

その時代の作詞家とやってみて、結果としての当たり作というのがありますからね。

村井 そうですね。相性みたいなものあるしね。何よりも山上さんとやってたのは、そのころはレコード会社とかプロダクションの制作マンに「このアーティストにこういう感じの曲を書いてくれ」って言われて書いてたんだけど、山上路夫に僕は、こういうのを書きたいねって言って、書いて、「これはやっぱり森山良子に歌わせたいね」って良子ちゃんに直接売り込んだり、あるいはディレクターに直接売り込んだり、そういうことをやってた。

それで、アルファミュージックがセレクトされた作家陣で始まって、いろいろなバンド&アーティストが出て行ったということになるんですね。なるほど。
で、アルファミュージックからアルファレコ―ドへ変わり、70年代の初めから80年代の終わりまで存続し、沢山のバンドアーティストを輩出しましたが、村井さんが一番好きだったアーティストは誰ですか?

村井 演奏家、歌手、作曲家・・いろんなものがあるけどね・・・作家で一番最初に契約したのはユーミン。凄いライターだよね。それと音楽家では細野晴臣。その二人が最初から最後までアルファの屋台骨を作ってると思う。だって、ユーミンのバックから始まってYMOまで・・

細野さんはずぅーとベース弾いてますもんね。

村井 しいて二人選べって言ったら、その二人だね。あとはそれにくっついている人たち。やっぱりミュージシャンでも肌合いの合う人と合わない人といる。細野の系列の人たちは全員合うな~特に仲が良かったのは佐藤博と仲良かったね。家に下宿してたからね。居候してたからね。

そこで村井さんは曲書きなよとか、楽器練習しなよとか・・・

村井 いやいや、そうじゃなくて、彼はもう吉田美奈子のプロデューサーしてて、キーボードやってて。夜帰ってきて、その日に録った曲を聴かせてくれたりとか、そんなもんですよ。

今の村井さんのお話を聞いていて思うことは、コンポーザーとかプレイヤーというのが2大柱なんですね。

村井 そうだね。で、コンポーザーとアレンジャーはほぼ一緒だと思うよ。というかアレンジャーが大重要だから。細野の素晴らしさは、単なるベースプレイヤーではなくて、そういうアレンジ能力、プロデュース能力で、音楽を総合的に創る力・・それが凄いんですよ。

わかる気がします。

村井 シンガーというのは・・・僕にとって最高のシンガーは山本潤子だね。生涯で出会った歌手の中で最大の歌手だね。・・・作詞作曲:ユーミン、歌:山本潤子、ミュージシャンは細野を中心とした一連の・・・松任谷正隆もその中に入ってくるけど・・・それが僕の一番好きな音楽、それがそのままアルファの音だね。

それが一番結晶になってますね。では、村井さんを一番期待を裏切ったアーティストって誰ですか?最初に思っていたのと違ったり、キャリアを積んでいくうちに化けたなとか、期待してなかったけど凄くなったとか、期待したけどさして振るわなかったとか・・なんでもいいんですけど。

村井 うーん、ないね。書く方はそういうことを考えるかもしれないけど、実際創ることを仕事でやっていると、いちいち現場で答えがでていっちゃうからさ。だから、最初から聴いて駄目だと思ったら契約しないし、いいと思う人はずっといいし。だから、ちょっと仕組みが違うの。だから、あまり答えられない、そういうのは。

ということは、一番最初に村井さんの選球眼にかかったというか、ちゃんと村井さんがジャッジした人は、ブレがなくいったということですよね?

村井 そうだね。赤い鳥なんかもそうだし。これは凄いと思って、そのまま凄かったよね。

村井さんのキャリアの出発点は作曲家ですけど、プロデューサーとかもっと総合的に見るという・・内容がそういうことをしていた局面もあるでしょうけど・・・プロデューサーとして名乗りたい、呼ばれたいというのはなかったですか?

村井 そういう角度から発想しないんだよね。今言ったみたいに、ユーミンと会うでしょ。曲を書かせるでしょ。曲を売ることを一生懸命やる訳だよね。売れなきゃ、自分で歌っちゃった方がいいんじゃないかってみんなも言うし、いろいろやらせてみようよとか言ってるうちに、プロデューサーみたいな仕事をやっちゃってるわけで、プロデューサーになりたいからなったとか、そういうんじゃないんですよ。(書き手さんは)みんな自分の頭の中でストーリーが繋がらないからさ、この人はプロデューサーになりたいからこういうことやったんじゃないかとか、レコード会社の社長になりたいからそうなんじゃないかとか考えるんだよね。そうじゃなくて、やってるうちにプロデューサーになっちゃったり、レコード会社の社長になっちゃたわけですよ(笑)。

なるほど、結果なってしまったという。だから村井さんの功績後に、プロデューサーという方々・・・例えば、長戸大幸さんとか小室哲哉さんだったり、秋元康さんだったり。

村井 そういうのがプロデューサーっていうんだね。

という方々の台頭があるんですよ。村井さんは実質プロデューサー的な内容をやっていたと思うんですけど、結果それが“プロデューサーの時代”みたいになったのは村井さんの後だと思うんです、1990年代以降。

村井 そうなんだ~その人たちがどういうことしてたか、解らないから寸評出来ないんだけどね。ただ、小室さんが創るものが小室さんのカラーだし、長戸さんがやるものも一つのカラーがあるんだろうね。なんかそういうメソッドみたいなものがあったのかな。

やり方があったんだと思います。

村井 僕たちはメソッドはないよ。細野を中心とした一つの音楽、あるいは詞曲で言えばユーミンを中心とした世界、あと詞で言えば山上さんの世界・・・・・・なんとなく自然に集まってきたものの中でずーっと流れてきた。
だから、流行歌とか・・・芸能界はさ、「整形手術してこい!」なんてこともあるらしいけど、そんなことは一切ない世界。あるがままってこと。

それで逆にいうと、村井さんが最もリスペクトしているコンポーザーでもアレンジャーでもアーティストでもいいですけど、そういう方はいるんですか?プロデューサーでもいいですよ。

村井 最も尊敬している人・・・ミシェル・ルグランは尊敬してるよね。それから海外での仕事が多かったですから、レコード業界の偉い人と沢山会うわけですよね。いろんな人と知り合いになる中で、生涯仲良く、楽しい付き合いが出来たのはアーメット・アーティガン、アトランティックレコードの創業者、最後会長だけどね。で、そういう人たちと付き合っているから、レコード会社を創ってやりたいとか、そういう人たちに混ざって、外国に自分たちの創った曲を売りたいとか思ったりしたんだよね。
日本には見本はなかったよねえ。「こういうふうになりたい」っていう。

サンプルがないっていう。

村井 海外にあったんだよ。例えば、クリス・ブラックウェルという人がいて、この人はジャマイカで産まれ育って、彼は白人で裕福なプランテーションのオーナーだったんだけど、レゲエミュージックをジャマイカから世界に広げたわけだよね。

アイランドレーベルですか?

村井 そうそう、アイランドレーベル。今はジャマイカの観光大臣とかやってる。そういう人をみてるから、僕が日本の音楽を世界に紹介しようという思考をしていくわけ。

A&Mの販売権を取得した時は、ちょうど販売権の期限が切れる時だったんですか?

村井 そう、切れる時だった。それでみんなで争奪戦になってた。どこも欲しい。キングも残って欲しいし、その時一番欲しがったのはビクターかな、僕の仲のいい人と実は競争になっちゃったんだけど、獲得合戦みたいなものがあって、獲得したわけ。

目を見張りましたよね、あの電撃的な獲得は。

村井 そういうふうに言われてるけどね。まあ、人間関係なんだよね。

それはやはりA&Mのレーベルに村井さんが興味というか魅力を感じたからでしょ。

村井 そりゃそうですよ、じゃなきゃやんないよ~

その魅力はどこにあったんですか?当時。カーペンターズと・・・

村井 カーペンターズもあったし・・それより経営者を良く知ってるからね。ハーブ・アルパート、ジェリーモス、それから顧問弁護士のエーブ・ソマー、それから当時僕が出版社としてA&Mに出入りしたキャロル・キングの代理人も僕が日本でやってたから知ってた。キャロル・キングのレコードを創っているのはルー・アドラーという人で。ルー・アドラーはA&Mの中に自分のレーベルを持って、キャロル・キングを創っていたわけ。だから日本人には電撃かもしれないけど、僕にとっては昔からの付き合いの中で、レコード会社(アルファ・レコード)も始めたし、あなたたちの物(A&Mの作品)をしっかり売る体制も作れると思うから、一緒にやろうと。ついては、僕たちも一生懸命やるけど、あなたたちも僕らの創ったものを海外に出してちょうだいよと。だったらそうしようよとって。
ライセンス契約している我々アルファレコードから、駐在員をA&M社内において。社内だから情報がこっち(日本)に入ってきて。しかもA&Mのマーケティング・ミーティングに毎週、うちの社員が出て・・・これが結果的に我々にとってもA&Mにとっても良かったのは、生情報がずんずん入ってくるわけで。どこでどんなアーティストがどのくらい売れてるとか、ラジオでどれくらいかかっているとか、A&Mがどれをプッシュするのかとかね。で、たまにマーケティング会議でアルファでこういうもの創ってますとか言って、YMOとかかけてみたりするわけですよ。マーケティング・ミーティングっておそらく総勢で30人位がでてたと思うけど、中には若手もいるんですよ。その若手が「これ面白いじゃない」って言いだして、その辺からYMOの世界進出が決まってくるわけですよね。だから、全部が人間と人間の繋がり。

政治とか金ではないですね~

村井 じゃない。

その時にはイギリスのA&Mもあったんですよね。

村井 ありました。デレック・グリーンという人がいてね。スーパートランプもポリスも全部デレックが世に送り出したよね。

なるほど。次に・・・アルファレコードはビジュアルに関してとか、コピーライターに極めて一流のクリエイターを一貫して起用していましたよね。それは、村井さんに意思が・・・思想があってのことだったんですか?

村井 そりゃそうですよ。非常に重要な問題だというふうに捉えていたということと、僕自身も美術とかデザインとか好きですからね。みっともないことはするなと。なるべく最先端の人たちを使ってやりなさいと・・特にYMOの周りなんかアートディレクターとか、写真家とかさ、コピーライターとかぐぁあと集まってきちゃって。

今でいうクリエイターがこう、一堂に会して。

村井 そうそう。

若い方もクリエイターで多かったですからね。立花ハジメさんとかまだキャリアの初期だったですもんね。

村井 奥村靫正(おくむらゆきまさ)さんとかいるでしょ。ああいう人たちなんかは、細野がやり出したころに、川越@埼玉県の方の、米軍のかまぼこ兵舎みたいなところにみんな住んでたんだけど。そこに集まってるデザイナーたちの中の人ですよ。

やっぱりニューウェーブだったんですね。

村井 そうだね、デザイナーとか写真家とか雑誌のライターとかみんな同じようなところで情報を交換してたんじゃないかな~。

アルファにはもちろん、スタジオAがありましたけど、村井さん自身がスタジオAよりもいいって言ったら単純ですけど、凌駕して、いろんな面でスタジオAより上だと思ったすばらしいスタジオってありますか?

村井 そういう質問は困っちゃうんだよ。行ってないから知らないんだよ。ただ、吉沢(エンジニア)といつも話してたのは、ともかく日本で一番いい音にしようって。もう世界水準を抜くようにしようって。それで金はいくら使ったっていいから、世の中で新しい機材が出てきたら、どんどんそれを取ってこいというふうに言ってただけで、比較できないんだよね。

当時村井さんはA&Mスタジオ@L.Aでレコーディングしてたでしょ。

村井 だってそれはA&Mとかモータウンのスタジオを作った建築家を連れてきて作らせんだから。(笑)

であれば、スタジオAは、技術の粋を集めたということになりますね。

村井 そういうことだね。その頃僕が世界中を歩いていて、一番いいと思った建築家とか機材を持ってきて、僕は細かいことは解らないから、吉沢にやってもらったということですよね。
まずね、評論家とかライターの人たちとかはいろんなもの見てるでしょ。僕らやってる本人は他のもの聴いてないのよ。自分のところのプロダクト聴くだけでもすっごい時間かかるんだから。それも、ユーミンがレコーディングして、初期の頃ね。後になったら聴かなくていいけど、最初のころは何回も何回も聴いて、「あれ直した方がいい」って。他のもの聴いてる暇がない(笑)。だから、他と比較してなんかというと、何にも解らないんだよね。

そういう時、村井さんの番頭みたいな人で、「社長、今こういうの流行ってますよ」って進言する方はいなかったんですか?

村井 いなかったなあ~例えばよ、「こういうの流行ってますよ」って言われて聴いて、いいなとか悪いなって思っても、それと同じようなものを創ってもしようがないじゃん。(笑)。それとそういうものが出来る人が周りにいないと出来ない。

でもミキサーとかが、今世界水準でこういうものが頭角を現しているって言われたら、じゃあ今度の誰それのアルバムのミキサー、エンジニアを使ってトラックダウンやってみようかとか、そういう発想はなかったんですか?

村井 音楽のスタイルによりけりでしょう。僕にとってのレコーディングというか音作りっていうのは、まだ生の時代だから。生のストリングスとか生のオーケストラとか、生のバンドの時代だからミキサーって言ったら、アル・シュミットだよ。笑)そっから先のことは良く解んない。あとはみんな好きにやってくれって。例えば、高橋幸宏みたいな若い人が「今は、こうなってんです」って言われても、それは好きにやれと。それはもう、僕が知らないところだから。好きにやんなさいって。

ここから先の質問は個人的なことなので、村井さんが話したくないことはお答えにならなくてもいいんですけど・・・松任谷さんとユーミンが交際していることを知った時は村井さんどう感じられましたか?

村井 それは個人の自由でしょ(笑)噂は聞いてたのね。どうもそうらしいよって。そのうちほんとに「中央フリーウェイ」なんて出てきて、こりゃほんとだよって(笑)。

そこは個人の意思ということで。

村井 もちろん。

YMOの中で一番面倒くさい人は誰でしたか?

村井 面倒くさい・・・一番面倒くさいのは、そりゃあ坂本龍一が面倒臭いけども、何が面倒くさいかというと、3人ともみんな違うマネージャーなんだよ(笑)。だからそれをまとめるのが大変なんだよな。凄いこと始めちゃったなと思ったよ。

凄いですよね。メンバーそれぞれ独立してマネージャーがいるっていうのは、画期的でしたよね?

村井 画期的というかめちゃくちゃだったよね。

当時なかったですよ。今でこそあるんです、バンドのメンバー1人1人にマネージャーがいるっていうのは。
では、YMOのアルバムセールス記録を破ったサザンオールスターズやB’zという存在を村井さんはどう思われますか?

村井 サザンは少しは知ってんだよね。好きだよ、彼らの音楽は。B’zはそれほど知らないから、あんまりコメントできないけど・・・・あっ!B’zってあの松本さんの・・・

そうです。

村井 松本さんはロスに住んでるんだよ。一回僕の家に来て、なんか凄い偉い人らしいね。沢山お客が見に来るらしいね。

Gibson社からギターのシグネチャーモデル、TAK MATSUMOTOモデルっていうのを出しているんですよね。で、松本さんは、1年前のソロアルバムで「学生街の喫茶店」をカバーしたんですよ。

村井 へぇ~、なんでそんなことしたんだろうね。

グラミー受賞を彼はしたんですけど。

村井 僕の家に来た時、レコードを持ってきてくれた。確かラリー・カールトンと一緒にやってるやつだよね。

はい。振り返って・・・A&Mの販売権取得したことも含めて、村井さんの構想の中に、アルファのミュージシャンをグラミー受賞までもっていくということはなかったんですか?

村井 うーん、もともと賞にはあまり興味がないタイプだったのね。日本のレコード大賞とかそういうものも含めて。それよりなんか純粋に音楽を創っていくことの方にエネルギーを集中しようと。グラミー賞ってあれだね、そういうものがあると便利だから、みんな取りたいと思うんじゃないのかな。グラミー賞受賞何回したとかさ。

名誉ですから。

村井 名誉だよね。

あと“通りが良く”なりますよね。

村井 そうだよね。B’zの松本さんもそういうふうになれば、向こうの人だって、日本人でグラミー賞取ったってことで、へぇ~ってなるもんね。

一目置く、通りが良くなるっていうのがあると思いますね。
では、今回のライブにあたり、村井さんのピアノというかキーボードの練習に関しては・・・

村井 大変なんだよ、これが。(笑)今も練習してたよ。坂本龍一が病気で出られないから、細野と幸宏と僕で「ライディーン」をやるわけ。

それは結構な大役ですね。
では、アルファというブランドを一言でいうと何になりますか?僕は、ソフィスティケーションだと思うんですよ。洗練された音もそうだし、ジャケット周りやコピーライティングとか全部含めて、洗練されたものがアルファ・プロダクトだなって思っていたんですけど。

村井 そう思ってもらえて嬉しいですよ。洗練させようとして、洗練されたものじゃないけど、みんながいいと思って・・・こういうのって僕だけ思っても駄目だからね。アーティストもそうだし、社員もそうだし、周りのデザイナーとかそういう人たちも・・・そういう人たちが集まって、総合的に、あなたがおっしゃるように他と比べて垢ぬけてるよねとか、洒落てるよねとか思われたら、僕は非常に幸せな気持ちになるね。格好いいことをやりたかったから。

やはり、他とは違うカッティングエッジなものを、やりたいということは村井さんの中にあったわけですね。

村井 そりゃ基本でしょ。だって、ビクターレコードとかコロムビアレコード、僕が駆け出しの時はさ、偉大な歌手だけど、コロムビアには美空ひばりさん、ビクターには橋幸夫さん。それはそれなりの偉大さは認めるけど、格好いいと思ってなかったからね(笑)。それとは違うものを創ろうと思ってた。
丁度時代の変わり目だったんだよね。

確かに潮目が変わるというところがあった。そこにアルファミュージックとアルファレコードが存在したのは、凄く時代の必然だったんだと思いますよ。

村井 こう比較して語る会社ってなかなか無いんだよね。難しいんだよね。僕達の前にはURC、アングラのフォークのレコード会社かな、僕たちと同じ・・・

エレックとかは、どうなんですか?

村井 エレックってキングだっけ・・・キングはベルウッドか・・

エレックはクラウン。

村井 クラウンか・・・後は後藤由多加が始めたフォーライフ、新田和長が始めた・・僕達のちょっと後かな・・ファンハウス・・・
そうやって並べても(アルファは)ちょっとユニークなポジションだよね。

その洗練度においては、アルファが抜きん出ていたと思いますけどね。やはり都会的な感じがしますよ。
で、村井さん長いことロスに住んでらっしゃいますが・・・

村井 もう25年。

こういうアニバーサリー的なイベントがあると、東京に戻ってきますけど、現在の日本、東京をどう思ってますか?

村井 音楽じゃなくて?全体的に?

そう、具体的に言えば、安部内閣の安保法案が通ってしまって、デモがあるような・・こういう現状を含めての・・・

村井 政治的なコメントは控えさせて頂きます(笑)。
だけどさ、ともかく日本にずっといると解らないことは、こんなに清潔でこんなにおいしいものを食べてる人たちは世界中にいないですよ(笑)。いろいろ問題あると聞いているけど・・確かに問題もあるんだろうけど・・飛行場に降り立った途端にさ、人がたくさんいて、どこへ行っても・・・お店に行っても、マニュアルがあるのか親切で凄いじゃない。キリっとしてて。へんなところに行けばホームレスもいるのかもしれないけど、僕が廻るエリアではみんな身なりも清潔だし、超一等国ですよ。というのが僕の日本の印象ね。
それからね、それと通じるんだけど、いい環境にいるものだから、世界のことを忘れていることができる訳で・・・僕はロスに住んでると、中南米やメキシコから食いつめて、移民してくる人たちが・・・話しでしか聞いてないけど、夜、命がけで川を泳いでくるとか、バスとか二重底になっているバスの下に入って、蓋を開けたら、みんな窒息して死んでたとか、そんな悲惨な話しとか。それからロスの街で運転してると、高級住宅地は綺麗だけど、ダウンタウンに行く途中のヒスパニックのところがほんとに汚くて。あと昔は、車に鉄砲向けてきたという人もいたし・・危険が一杯なわけよ。だから、日本人は「人生は危険と隣合わせだ」ってあんまり解ってなくて。でもかわいそうだったのは震災、原子力発電所のこととかそういうのはあるけどね。それ以外のことで世界の危機的な状況を感じてないんじゃないかなと。それが問題点。あまりに良すぎて。

一等国ですからね。

村井 一等国だよ。未だにGDPなんか3位か4位でしょ。アメリカ、中国に次いで、ドイツとか日本くらいでしょ。それで、音楽家もこっちの方が食いやすいんじゃないの。相当ひどいよ、アメリカのミュージシャンの暮らしっていうのは。ジャズミュージシャンとか、あんまり流行ってない種類の音楽をやってる人たちっていうのは。かなり上手い人でも職がないとか。東京のコンサートの数とかライブハウスの数とか、アメリカと比べるとこっちの方が楽かもしれないよ。っていう気がする。

なるほど。最後に日本のことを村井さんにお聞きしたかったので、よかったです。ではライブを楽しみにしています。

村井 はい、一所懸命練習します。

ありがとうございました。

村井 ありがとうございました。

interview&text / 佐伯 明 photo / 藤城貴則

村井邦彦

作曲家・編曲家・プロデューサー。米国ロサンゼルス在住。
1945年3月4日東京都生まれ。日本を代表する作曲家として、札幌オリンピックのテーマソング「虹と雪のバラード」や、学校教育、合唱の定番曲「翼をください」をはじめ「エメラルドの伝説」、「ある日突然」など多くのヒット曲を世に送り出している。作曲家としてのデビューは慶應大学在学中の1967年、ヴィッキー「待ちくたびれた日曜日」。1969年音楽出版社「アルファミュージック」を設立し、フランク・シナトラで有名となった楽曲「マイ・ウェイ」や、キャロル・キング、ニール・セダカ、バート・バカラックなどの楽曲を管理。プロデューサーとしては、荒井由実、YMO、赤い鳥、サーカス、ハイ・ファイ・セットなどを手掛けヒットさせる。
1977年「アルファレコード」を設立。1992年、活動の拠点をロサンゼルスに移して以降、海外の作編曲家、芸術家達との親交を深め多くの共同作業を展開。現在はアメリカと日本を往来し、作曲家として活動中。

http://smpj.jp/songwriters/kunihikomurai/

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