ビートルズの武道館公演を実現させた陰の立役者たち  vol. 24

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ビートルズのヒットで軌道に乗った東芝音楽工業の再建計画

ビートルズのヒットで軌道に乗った東芝音楽工業の再建計画

第3部・第23章

1964年5月15日、キャピトルのグレン・ウォリクス会長がロサンゼルスから来日した。これは前年の夏に「SUKIYAKI」を大ヒットさせた坂本九に対して、特製のゴールドディスクを授与することが目的だった。石坂範一郎と久野元治会長はこのときもウォリクス会長から最新情報を得て、アメリカでのビートルズの勢いが、一過性のものではないという事実を確認したと思われる。そして6月には早くもセカンド・アルバム、『ビートルズ!NO.2!』をやはり独自の選曲で発売することにしたのだ。

SECOND ALBUM

ビートルズのブレイクに関してとくに重要だったのは、それまでのお子様向けポップスとは違って、価格が高くて大人向けだと思われていたアルバムが、シングル以上に売れ続けていることだった。キャピトルがその年の1月20日に発売したアメリカにおけるデビュー・アルバム、『Meet The Beatles!』は発売されてまもなく『ビルボード』誌のアルバム・チャートで1位(2月15日付け)に躍り出て、そこから17週間も連続で1位の座を保つことになったのである。

イギリスでもその1年前からほぼ1年間、ファースト・アルバムとセカンド・アルバムが1位の座を独占した状態にあった。日本もキャピトルに倣ってファースト・アルバム『ビートルズ!』を、日本独自の編集で4月15日に発売した。ジャケットはキャピトルの『Meet The Beatles』とほぼ同じだが、アメリカより3曲多い14曲が選ばれていた。

MEET THE BEATLES!

『ビートルズNo.2!』」は発売日の6月15日になっても、注文に見合うだけの製造が間に合わず、工場でジャケットにLP盤を入れる余裕がなかった。そのためにレコードが裸のまま東京支店に入荷、それを1枚でも多く仕入れようと東芝レコードの特約店から駆けつけた店員や店主が、一斉にジャケット入れを手伝うという光景も見られたという。

ビートルズが加わったことによって、東芝レコードの再建計画は軌道に乗り始めた。昭和38年度下期(1963年10月1日~64年3月31日)の売上高は、予想を上回って8億8500万円にまで達した。なかでも邦楽の売上に貢献したのは、アメリカの大ヒットを受けて再発売された、坂本九の「スキヤキ(上を向いて歩こう)」である。その話題もあって注目を集めたのが、同じく坂本九の「見上げてごらん夜の星を」だった。さらには中村八大が青島幸男の作詞で坂本九に書き下ろした「明日があるさ」が、年末から年始にかけて大ヒットした。

この年から邦楽の層が厚くなったのは、アメリカで「SUKIYAKI」がヒットした余波で、スタッフや関係者たちが作品づくりに自信を持ったことも影響していただろう。草野浩二ディレクターが手がける弘田三枝子はデビュー以来、カヴァーポップスによるヒット曲を次々に放っていた。宝塚出身のベテラン歌手の越路吹雪にも、初めて「ラストダンスは私に」というヒット曲が誕生した。また坂本九が独り立ちした後、ダニー飯田とパラダイスキングには新人の九重佑三子が加入して「シェリー」を筆頭にコンスタントにヒットを出した。国民的な人気者となったクレージーキャッツも健在だったし、スリーファンキーズや克美しげるといった新人も順調に育ち始めていた。

東芝レコードはこうしてもたらされた好循環によって、「益々悪化の一途を辿るばかりであった」という状態から1年足らずで、社内に明るさと笑いを戻したのだった。そこにアメリカでビートルズ旋風が巻き起こって、ほとんどリアルタイムで日本にも熱風が吹き始めたのだ。

ビートルズは数ヶ月で世界最大の北米マーケットを征服し、イギリスのEMIとアメリカのキャピトルの両社に巨額な利益をもたらす存在になっていった。日本もアメリカとは1か月半しか遅れずに発売することができて、英米並みとはいかないまでも売れ行きはきわめて好調だった。レコードの製造が追いつかない状態となった工場は、ビートルズのプレスを優先するために他のアーティストの発売を控えたりして、生産調整をする必要にも迫られた。

ビートルズは東芝レコードの中だけでなく、日本の洋楽シーンでも確実に大きな存在感を占めるようになっていく。音楽評論家でラジオのDJでも活躍した八木誠の『洋楽ヒットチャート大辞典』によれば、1964年の洋楽年間チャートはこういう結果になっている。

1位 *「ロシアより愛をこめて」 マット・モンロー
2位 *「花はどこへ行った」 キングストン・トリオ
3位  「恋のパームスプリングス」 トロイ・ドナヒュー
4位  「恋はスバヤク」 ガス・バッカス
5位  「太陽の彼方に」 アストロノウツ
6位  「ワシントン広場の夜は更けて」 ヴィレッジ・ストンパーズ
7位  「マイ・ボニー」 ビートルズwithトニー・シェリダン
8位  「ラスベガス万才」 エルヴィス・プレスリー
9位  「ブーベの恋人」 サウンド・トラック
10位 *「抱きしめたい」 ビートルズ
11位  「夢見る想い」 ジリオラ・チンクェッティ
12位  「いとこにキッス」 エルヴィス・プレスリー
13位 *「プリーズ・プリーズ・ミー」 ビートルズ
14位 *「恋するふたり」 ビートルズ
15位  「ネイビー・ブルー」 ダイアン・リネイ
16位 *「ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!」 ビートルズ
17位  「サンフランシスコの思い出」 ブレンダ・リー
18位 *「プリーズ・ミスター・ポストマン」 ビートルズ
19位  「七つの水仙」 ブラザース・フォア
20位 *「シー・ラブズ・ユー」 ビートルズ

東芝音楽工業が発売するレコードには*印を付けたが、1位と2位のほか、20曲中の8曲を占めていた。また他社の1曲を含むと、ビートルズだけで7曲も入っていたのである。こうしたチャートの数字と実際の売上高、伸び率などを見ていくと、日本のマーケットが年を追うごとに大きくなっていることは自明の理だった。

急成長していく日本のマーケットで、6番目にできた新興の東芝レコードが大きくシェアを伸ばすことは、原盤契約を結んでいるEMIやキャピトルの収益に直結するものだ。しかも外貨獲得という形で株主の利益につながっている。EMIとキャピトルが共通の利益を得るために、東芝レコードをバックアップするのは企業として当然だった。そこにはもちろんビートルズの来日公演の実現という、先々のテーマも課題として含まれていたであろう。

昭和39年度上期(1964年4月1日~64年9月31日)の売上高が発表になったのは、ウォリクス会長の来日から半年後のことだ。期首に目標として立てたのは10億円だったが、売上はそれを40%も上回って14億円にまで達した。そのなかでビートル関連は4億円、全体の3割近くにまで膨らんでいた。

東芝音楽工業はそのタイミングで久野会長が就任してから初めて、大幅な組織変更と人事異動を行っている。1964年10月1日、範一郎は専務取締役に昇進し、新たに邦楽制作の責任者として浅輪真太郎が文芸部長となった。久野会長とともに範一郎もまた、ビートルズを売るだけでなく、邦楽の強化を進めていくことになった。ビートルズに影響を受けた日本のアーティストを育てて、いずれは花を咲かせなければならないときを見越してのことだ。

久野会長は、会社再建のため、昭和38年9月就任した直後から、流行歌を中心とした邦楽強化を、大方針として取り上げていた。いつの時代でもそうであったように、レコード会社の発展は、邦楽流行歌の制作、販売を協力に推進し、その築き上げた力を業界に於いて、維持増大してゆくことである。
〈略〉
昭和39年6月発売の、「幸せなら手をたたこう」(唄)坂本九は、幼児から大人、老人まで愛唱され、「上を向いて歩こう」以来の大ヒットとなった。更に7月、「サン・トワ・マミー」(唄)越路吹雪もまた大ヒットをした。
(『東芝音楽工業株式会社10年史』)

ここで参考までに1964年の邦楽チャートも記しておきたい。これは「年代流行」(http://nendai-ryuukou.com/)というサイトのものだが、当時13歳だったぼくの実感との差が少なくて、比較的公平に見えるものだ。ここでも上位3曲のうち、*印の2曲は東芝音楽工業の坂本九だった。

1位 *「明日があるさ」 坂本九
2位  「君だけを」 西郷輝彦
3位 *「幸せなら手をたたこう」 坂本九
4位  「愛と死をみつめて」 青山和子
5位  「君たちがいて僕がいた」 舟木一夫
6位  「恋の山手線」 小林旭
7位  「皆の衆」 村田英雄
8位  「アンコ椿は恋の花」 都はるみ
9位  「柔」 美空ひばり
10位  「お座敷小唄」 和田弘とマヒナスターズ

あらゆる面で歯車が回り始めた東芝レコードの経営再建計画は、ビートルズの登場によって完全に上昇機運に乗った。範一郎が本気でビートルズの招聘に向けて動き出したのは、ここからではなかったのかとぼくは推測している。というのもこのときに業績向上に大きく貢献したビートルズに対して、日本からゴールドディスクを贈呈することが発表されたのだ。

坂本九がキャピトルのウォリクス社長からゴールドディスクを贈呈されて、まだ半年も経っていなかった。東芝レコードがビートルズを顕彰することで、さらに良い関係を築こうとしたのは明らかだった。ゴールドディスクをビートルズに贈呈することで、ロンドンのEMIを通じてNEMSのブライアン・エプスタインとの接点ができる。

東芝レコードは1965年の10月、創立から5周年を迎える予定になっていた。東京芝浦電気の事業部だった時代に、最初のレコードを発売してから数えても、ちょうど10年という節目にあたる。そのようなタイミングに合わせて、ビートルズの来日公演を実施することができれば、社業に弾みをつけられるだろう。しかも社員の士気が高まることで、会社全体に活気がみなぎっていけば売上をもっと伸ばすことが可能になる。

そうした計画が進んでいくなかで、ビートルズの著しい業績に感謝して東芝レコードからゴールドディスクを贈呈する式典が、1965年1月13日に東京ヒルトンホテルで開かれた。ビートルズの代わりに出席したのは、イギリスでの発売元である英国EMIの海外部長と、アメリカでの発売元だったキャピトルの副社長だ。その頃から「ポピュラーは東芝」というキャッチフレーズが、ラジオ局やレコード店などでも合言葉になっていた。贈呈式のために来日した両社の幹部たちは、日本の音楽マーケットが著しく伸びていることを、数字の裏付けとともに強く認識したに違いない。6番目に出来た後発のレコード会社はいよいよ、他社にはない個性と本領を発揮し始めたといっていい。

なおこの時点では英国EMIとキャピトルがそれぞれ25%ずつ、東芝音楽工業の株を保有していた。2社で合わせれば50%となり、親会社である東芝とは対等の大株主だった。また両社間においては、多国籍企業の英国EMIがキャピトルの大株主という立場にあった。ただし資本の上では親会社と子会社いう関係にあっても、圧倒的に巨大なマーケットを持っていたキャピトルのほうが発言権は強かったようだ。

→次回は1月19日更新予定

文 / 佐藤剛
最上部の写真:提供 / 毎日新聞社

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。 著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『歌えば何かが変わる:歌謡の昭和史』(篠木雅博との共著・徳間書店)。

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