ビートルズの武道館公演を実現させた陰の立役者たち  vol. 27

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世界で初めてビートルズの単独インタビューに成功した『ミュージック・ライフ』

世界で初めてビートルズの単独インタビューに成功した『ミュージック・ライフ』

第3部・第26章

新興楽譜出版社の音楽雑誌『ミュージック・ライフ』の編集長、星加ルミ子が世界で初めてビートルズの単独インタビューに成功したのは、MBA叙勲のニュースが発表された3日後、1965年6月15日のことだった。坂本九の歌った「SUKIYAKI」が全米1位になったこの日付は、日本の音楽人にとっては縁起がいい数字なのかもしれない。日本とビートルズとの距離はここから一気に縮まったと言えるだろう。

星加がビートルズの人気が尋常ではないことに気づいたのは、1964年2月に『エド・サリヴァン・ショー』に出演して大反響を巻き起こしたことや、2月12日にカーネギー・ホールでコンサートが行われたというニュースが入ってきてからだ。それまでも『ミュージック・ライフ』編集部にはビートルズ・ファンの女の子たちが、「どんな情報でもいいから知りたい!」と熱心に訪れてはいたのだが、その数が急に増えてきたので星加はすぐに誌面に反映させることにした。

最初に大きく取り上げたのは外部のライターだった湯川れい子の「特集 “ビートルズ” ピンからキリまで」という記事で、1964年4月号に掲載された。

しかし好評だった反響に応えようとしても、ビートルズの情報や写真はなかなか手に入らず、記事を作ることが容易ではなかった。それでもビートルズを取り上げると、必ず確かな反響があって『ミュージック・ライフ』の発行部数は急速に伸びていった。そんな時期にビートルズが初めて主演した映画『A Hard Day’s Night(ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!)』が完成した。そこで日本で上映するかどうかを迷っていた配給元、ユナイト映画が映画および音楽関係者を集めて試写会を開いた。

映画は人気が爆発したことによる厳しいスケジュールのなかでも躍動感いっぱいに飛びまわるビートルズの姿を、実生活におけるエピソードをもとに等身大で描いた作品で、ドキュメンタリー・タッチでもあった。この映画のおかげでイギリスやアメリカ以外の音楽ファンにも、ビートルズは一気に近しい存在になり、音楽の魅力も広い範囲にまで伝わっていくのである。

初めて動くビートルズを目にした星加は、映画が公開されれば間違いなくファンが急増すると察知していた。Fab Fourのメンバーたちはそれぞれキャラクターは違っていても、明るいスター性も持ち合わせていて、どこかに共通する一体感があって魅力的だったのだ。

試写室には有名な映画評論家や、東芝レコードの重役なども座っていた。専務だった石坂範一郎は、星加にもよくビバルディを勧めるようなクラシック愛好家だったが、この映画にはただならぬものを感じたようで、手短にこう話しかけてきた。

「星加さん、日本でも本気になってビートルズを売りましょう」
9784309272078

淡路和子著
『ビートルズにいちばん近い記者~星加ルミ子のミュージック・ライフ』
河出書房新社

範一郎が星加にかけたひと言は、その後の『ミュージック・ライフ』の仕事において重要な追い風となっていく。

1964年9月号で初めてビートルズを表紙にしたほか、別冊でビートルズ特集号も出した。ビートルズを載せてほしいという読者からの要望が、日を追うごとに増える一方だったので、とにかく使える写真を探してきて、あらゆる方法でそれを使い回した。しかしそうした小手先の技では、すぐに限界が来て紙面に載せる写真がなくなってしまった。

海外で直接取材をしようと言い始めたのは、当時の『ミュージック・ライフ』編集長で、新興楽譜出版社の専務だった草野昌一である。草野に「こうなったら、こっちから行かないとダメだ」と言われて、星加はブライアン・エプスタイン宛に取材を依頼する手紙を出した。だが、すぐに「Absolutely Not!(絶対に駄目)」という返事が返って来た。世界中のメディアからオファーが殺到しているので、1社だけに取材を許可するわけにいかないというのが理由だった。

草野はあきらめずにあらゆる可能性を探って、渡英して取材する準備を始めた。まず日本における著作権の代行を契約しているイギリスの音楽出版社を通じて、ビートルズにつながる関係者への接触を試みた。星加も「日本のマーケットは現在急速に大きくなりつつあります。私が日本人として取材するというのは、ビートルズにとって非常にメリットのあるオファーです」という手紙を関係各所に出した。

試写会で「本気になってビートルズを売りましょう」と声をかけてくれた範一郎のところへも行って、現地取材に関する具体的な相談に乗ってもらった。全面的な協力を約束した範一郎はさっそく、ロンドンEMIで海外販売促進を担当するスタン・スターンにコンタクトをとった。そして『ミュージック・ライフ』への協力を要請してくれたのだ。

そこから新しい動きが起こっていく。EMIのなかでスターンは最もビートルズの近いところにいたのだ。プロデューサーのジョージ・マーティンと、ごく親しい間柄だったのは大きな幸運だった。

スターンから星加のもとへ、「私はあなたのためになんでもしますから、ぜひロンドンにいらっしゃい」という手紙が届いた。それが1965年4月の終わり頃のことである。ここでもまた海外から吉報がもたらされるという、ビートルズらしい展開が始まっていたことになる。

「草野さんが綿密に計画を立てて、ビートルズを中心としたレコード会社、音楽出版社、関係があると思われるありとあらゆる分野へのネゴシエーションは、全部彼が手配しました。そして最終的に一番大きかった要因は、東芝レコードとロンドンのEMIレコードの重役同士が話をしてくれたこと。これが一番効いたんですね」
漣流

和田彰二著
『漣流(さざなみりゅう)~日本のポップスの源流を作り出したヒットメーカー~草野昌一×漣 健児』
CDジャーナル・ムック

スターンと直接交渉していくなかで、バハマ諸島で撮影した2本目の映画『Help!(ヘルプ!4人はアイドル)』のロンドンでの作業が5月までに終わり、ビートルズのメンバーたちは6月いっぱいまでロンドンのEMIスタジオでレコーディングに専念するという情報を教えられた。さらに「日本にいないでイギリスにいらっしゃい。来たら私たちは最大限サポートをするから」と、強く勧められたのである。

この連絡はEMIとしての準備がもうすべて整っている、そんな意味を暗に含んでいたのではないだろうか。ロンドンでのレコーディング中ならば、直接取材するチャンスがあるということをそれとなく知らされたようなものだ。日頃から勘の良かった草野はこのとき、『ミュージック・ライフ』編集長の椅子を星加に譲って、何が何でもビートルズの取材を成功させるようにと命じたという。

草野は海外の音楽出版社にストックされていた自社の取り分を、取材の資金として現地で引き出して使えるように手配した。星加のために潤沢な取材費用を用意し、万全の体制を整えてイギリスへ送り出すためである。頭を使ったのは交渉相手、マネージャーのブライアン・エプスタインへのお土産だった。

私たちは行くからにはブライアン・エプスタインが絶対にノーと言えないようにしようと、いいおみやげをみんなで1週間くらい考えたんですけど、良い案が浮かばないんですよ。カメラ好きと聞いていたから魚眼レンズとか考えたんですが、高価だし重たいんですよ。それである日NHKのニュースで黒澤明が海外の映画賞をもらったニュースが流れていたんですよ。「七人の侍」の映像とかも流れて。そのときに「日本刀」がふっとひらめいたんです。
「日本刀をもって行こう!」と。イギリスは騎士道の国ですから、日本のサムライ、武士道も通じるだろうと思ってね。
(淡路和子著『ビートルズにいちばん近い記者~星加ルミ子のミュージック・ライフ』河出書房新社)

ここでも草野の行動は素早かった。父親のツテをたどって刀剣店に行き、本物の日本刀を入手することにしたのである。一振で都心のマンションの部屋を一つ買える、そのくらい高価な刀を選んで購入した。さらに草野はそれと同じような長さのイミテーションも4本買い求め、ダミーとして一緒に持って行くようにと、星加に指示を出した。これらをまとめて手荷物として紙袋に入れて、さりげなく税関を通過して本物の日本刀を持ち出すという作戦だった。

その刀の値段の話を知って草野の覚悟とともに、ここぞとばかりに勝負に出た行動が、ぼくなりにわかるような気がした。25歳のときに新興楽譜出版社に入社してから2年間、草野の下でぼくは働かせてもらったことがある。

当時ぼくが担当していたのは甲斐バンドで、最初に草野と一緒に長い時間を過ごしたのは、甲斐よしひろのソロアルバムを制作したときだ。それはアメリカのナッシュヴィルでレコーディングが行われたのだが、スタジオやミュージシャンの手配をふくめて、すべては草野のお膳立てによるものだった。

ぼくはその時にまずロサンゼルスで、キャピトル・タワーやA&Mスタジオに連れて行かれた。もちろん草野が勉強のためにと、わざわざ見学させてくれたのである。草野はいつも細かく周囲に気を配ったが、ここぞというときは思い切った勝負ができる人だった。交渉相手の情報収集と分析も怠らなかった。

ビートルズのような素晴らしいアーティストを発見してレコード・デビューさせて、大成功を収めただけでなく、そこから表現者として才能を伸ばしているマネージャーのことを、草野は一流のミュージック・マンだと確信していたに違いない。だからこそプレゼントひとつにしても、気合を入れて選んだのだろうし、金に糸目をつけなかった。そして非合法の手段を使ってでも、星加から直接それを手渡すように指示したのだろう。

ほんものの日本刀を選んだからだけではなく、草野がここで下した決断こそはサムライのようだとぼくは.感じた。自分たちの真剣な思いが相手に伝わらないわけがない、そう考えてマンションの一室分にもなる高価な刀を選んだのだ。それは日本のサムライ(武士)から、イギリスの騎士(ナイト)に送られた、無言のメッセージだったのかもしれない。

ロンドン取材に発つ前に昌一は言った。
「足元を見られないようにしろよ。日本からお姫様編集長が行くんだ。一級のホテルに泊まって、レコード会社に行くにしても、ブライアンに会うにしてもバリッとした格好で行けよ。金はいくらでも出してやる。そのかわり、ビートルズに取材できなかったら……ドーバー海峡に身を投げて死ね!」
(和田彰二著『漣流(さざなみりゅう)~日本のポップスの源流を作り出したヒットメーカー~草野昌一×漣 健児』CDジャーナル・ムック)

草野の思い切った作戦と、日本のファンの純粋な思いを背負った星加の気持ちが伝わったのか、『ミュージック・ライフ』は世界初の単独取材に成功するのである。そしてこの取材が行われたからこそ、ビートルズが日本のファンともつながり、日本文化に関心を持つことにもなった。さらにはブライアンもまた日本やアジアのマーケットに注目するようになったことで、そこから来日公演の可能性が具体的になっていくのだ。

→次回は1月30日更新予定

文 / 佐藤剛
最上部の写真:提供 / 毎日新聞社

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。 著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『歌えば何かが変わる:歌謡の昭和史』(篠木雅博との共著・徳間書店)。

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