ビートルズの武道館公演を実現させた陰の立役者たち  vol. 30

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「ポピュラーは東芝」を地で行く快進撃が始まった

「ポピュラーは東芝」を地で行く快進撃が始まった

第3部・第29章

1965年に入ってもビートルズ人気の勢いは変わらず、世界的に見ても空前絶後のものとなった。4月にリリースしたシングル「涙の乗車券」は、すぐにイギリスとアメリカで1位となり、7月には2作目となる映画の『ヘルプ! 4人はアイドル』が公開された。ビートルズの話題は途切れることなく、8月には3回目となる全米ツアーがニューヨークのシェイ・スタジアムで幕を開けた。

世界でも初の試みとなるスタジアム・コンサートは、プロモーターのシド・バーンスタインから出た提案だった。ファンを大事にしながら人気を継続させる方法を考えていたブライアン・エプスタインも、この挑戦は期するところがあったと思われる。それまでのコンサートでは大ホールといえども、収容人数は1000人単位だった。たとえばニューヨークのカーネギー・ホールでも3000人しか収容できない。だが野球場ならば10000人単位の観客を集められる。多額のチケット料金を取れない少年少女が観客でも、桁が違う人数が一度に集まれば十分な収益が期待できる。いや、これまで以上に外貨を獲得できる可能性もある。

ビートルズは1964年の夏、ブッキングエージェントのGACに依頼して1ヶ月で全米21都市、27公演という強行軍でコンサート・ツアーを成功させていた。だが発表する作品のクオリティを高めるためには、映画やレコーディングに時間がかかることから、65年の公演数は半分以下に減らす必要があった。

ニューヨーク公演を仕切ることになったシドはGAC(General Artists Corporation)から独立したプロモーターで、約5万人を収容できるニューヨーク・メッツのホーム、シェイ・スタジアムでの開催を提案してきた。ブライアンは当初、その案にそれほど乗り気だったわけではない。大きなスタジアムがコンサートで満員になった例は、過去にはなかったのだ。しかし「売れ残ったチケットは買い取る」という、シドの強い自信と熱意に押されて、ブライアンはシェイ・スタジアムでの公演にふみきった。もしこれがうまくいったならば、今後の興行が根底から変わっていくことになる。

なるべくファンに負担をかけたくないというブライアンの意向で、チケットの値段は4ドルから5ドルに設定されていた。なるべく多くの少年少女たちが見に来られるようにと、アルバム1枚分よりも安い値段にすることが基本方針だったからだ。その目論みどおりにチケットは完売となり、8月15日のシェイ・スタジアムは55600人のビートルズ・ファンで埋め尽くされた。

この年のアメリカ・ツアーが大量の観客を動員して大成功に終わったとき、キャピトルはシングル盤を再発売して大きな収益を上げていた。コンサートとレコードの親密な関係は、このあたりから顕著になって、21世紀の現在までつながっていると言える。

東芝レコードの石坂範一郎が当初に10月を目標にしていたビートルズ来日公演は、MBA叙勲が6月に決まった時点で、スケジュール的には可能性がなくなってしまった。しかし範一郎は7月から約1ヶ月間、以前から計画していた欧米への長期出張に出かけている。これまでのビートルズの来日公演をめぐる考察では、この段階で東芝レコードが招聘をあきらめたと見なされていた。だが実際にはその逆だったのではないか。

なぜならば創立10周年だからということで1965年10月にこだわる意味が、範一郎および東芝レコードにはなくなっていたからだ。東芝レコードの洋楽はこの年、ビーチ・ボーイズの「サーフィンUSA」と「サーファー・ガール」、ザ・キングストン・トリオの「花はどこへ行った」、アダモの「サン・トワ・マミー」、アニマルズの「朝日のあたる家」、ピーターとゴードンの「愛なき世界」、さらにはデイヴ・クラーク・ファイヴ、クリフ・リチャードと、次から次へとヒット曲が生まれていたのだ。

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『東芝音楽工業株式会社10年史』にはこんな記述がある。

「ビートルズ」が「ヴェンチャーズ」を呼び、まさにポピュラー界を騒然たる興奮の坩堝に巻き込んださ中に於いて、決然としてポピュラー界に更にひとつの強大な流れが浸透してきた。「ピーター・ポール・アンド・マリー」である。フォーク・ギターの演奏で、静かな悲しみと、時には笑みを浮かべ、ある時は訴えるごとく、若い人々の心琴に直接語り掛けるような歌手。「風に吹かれて」、「レモン・トゥリー」、「悲惨な戦争」、「500マイルもはなれて」他、すべてのレコードは大ヒットとなった。「ビートルズ」、「ヴェンチャーズ」等のようにはげしく身体をぶつけるようなポピュラー音楽と、この「ピーター・ポール・アンド・マリー」の心の底から静かにそして強く歌い出される音楽が、共に同じ時代に、同じように若い人々に愛され、絶大な支持を受けることは、決して不思議なことではない。繁栄の影に、やり場のない虚無と悲しみを抱いている当時の世相の中に生きている若者たちも、その若者たちに愛される音楽の世界も、決して違う次元のものではない。
ポピュラー・レコードの売り上げ増大に伴って、会社全体に亘って強力な自信がもたらされた。
(『東芝音楽工業株式会社10年史』)

苦境に陥っていた2年前、範一郎が将来を見越して獲得してきたレーベルのワーナー・ブラザースやリバティ、ステーツサイドなどが軌道に乗ってきたのだ。ビートルズのレコードが順調に売れていたところに、日本中を巻き込むエレキブームが起こった。それまでは地味な存在だったリバティのベンチャーズが、突如として脚光を浴びたことで既発のレコードの売れ行きが大きく伸びていた。

1965年の初頭にべンチャーズが急にブレイクしたのは、来日コンサートが大評判になったからである。そこから男性の若者たちの間で一気に、空前のエレキブームが巻き起ったのだ。過去にさかのぼって既発のアルバムが一斉に売れ始めていたのも、当時はかなり珍しい現象だった。これはビートルズの動きともつながって、シングルと同等にアルバムが売れる時代の到来を告げるものだった。

それを証明するかのように大ヒットしたのが、1月の来日公演のライブをレコーディングしたアルバム『ベンチャーズ・イン・ジャパン』である。売上は50万枚ともいわれるが、当時としては邦楽でもありえない数字だった。この年はベンチャーズがビートルズを凌ぐセールスを記録した。このようにして来日公演は、レコード・セールスに大きく跳ね返ってくる可能性が証明された。

ベンチャーズは7月、エレキ・ブームに包まれた日本にふたたび戻ってきて単独公演を開いた。1日2ステージのコンサート・ツアーを全国28都市で実施、全て売り切れという快挙となった。それらの公演を仕切っていたのが協同企画の永島達司だった。

東芝レコードの業績は前年にもまして右肩上がり伸び続けていた。2年前には誰も予測できなかったことだったが、まさに「ポピュラーは東芝」の言葉を地でゆく勢いにあった。

範一郎が新興楽譜出版社の草野昌一に頼まれてEMIのスタン・スターンに連絡し、彼を通して行った交渉がうまくいったことで、『ミュージック・ライフ』は6月15日に世界で最初の独占取材に成功していた。そして8月に行われたビートルズのシェイ・スタジアム公演にも、『ミュージック・ライフ』は取材に招待されるような関係になった。ビートルズ側が日本に対して、特別の関心を持ち始めたのは明らかだった。

そうした一連のことが範一郎にとって、プラス志向に働いたと考えられる。だから範一郎は来日公演の実現に向けて、焦ることなく余裕を持って交渉すべくロンドンへ向かった。結果から逆算してみれば、そう考えるほうが自然なのである。

→次回は2月9日更新予定

文 / 佐藤剛
最上部の写真:提供 / 毎日新聞社

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。 著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『歌えば何かが変わる:歌謡の昭和史』(篠木雅博との共著・徳間書店)。

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