ビートルズの武道館公演を実現させた陰の立役者たち  vol. 31

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ロンドンで石坂がひそかに進めた事前交渉

ロンドンで石坂がひそかに進めた事前交渉

第3部・第30章

東芝の専務のという要職にありながら、子会社である東芝音楽工業の会長も兼任していた久野元治が、東芝社長の岩下文雄によって専務から外されたのは1963年のことだ。しかし非常勤取締役に追いやられたことによって、東芝レコードの再建に集中して取り組む時間ができたのである。そのことから経営危機を脱する目処が付いたのだから、これも不思議なめぐり合わせだとしか言いようがない。

そして全世界で大ヒットした「スキヤキ(SUKIYAKI)」に続いて、坂本九の「見上げてごらん夜の星を」と「明日があるさ」がヒットしたことで、ビートルズがデビューする頃までに再建計画は軌道に乗ったのだった。

久野会長は時間と気持ちに余裕ができたことから、1964年の1月から3月まで欧米視察の旅に出ることにした。レコード産業の現状を把握し、イギリスのEMIやオランダのフィリップス、アメリカのキャピトルなどの関係各社をまわり、今後のビジネスに関して幹部クラスと話し合うためだった。

時を同じくしてアメリカ進出していたビートルズが、驚くべき成功を収めたのは幸運としか言いようがない。イギリスで生まれた新しい音楽が、アメリカの若者たちに熱狂的に受容される様を、久野会長は期せずして本場で体験することになった。そのことが会社を再建から躍進へと、大きく転換させるきっかけになったのだ。

現場を指揮していた常務の石坂範一郎が大幅に売上を伸ばしたこともあり、東芝音楽工業はその年の秋に株式の1割配当を復活している。そのとき、皮肉なことに親会社の東芝は業績がますます悪化して、かつては1割3分だった株式の配当が年に3分ずつ削られて、わずか4分にまで下がっていた。社長の岩下以下がその経営責任をとって、退陣に追い込まれたたのが1965年4月のことだ。そこから会長である石坂泰三によって社長に招かれた土光敏夫が、東芝の経営再建と社員の意識改革に取り組んでいった。

ひと足早く経営危機を脱した東芝レコードは、1965年度の上期に入ってからも好調で、洋楽部門の飛ぶ鳥を落とす勢いが止まらなかった。邦楽部門でもヒットの兆しが見えていたエレキの若大将、加山雄三に本格的なブームが到来した。久野と石坂が掲げた邦楽強化の方針は、加山雄三のブレイクを機に大きな実を結んでいく。

加山雄三は映画俳優として東宝と専属契約を結んでいたが、歌手としては東芝レコードの所属だった。そして渡辺音楽出版ともソングライターの契約を結んでいた。当然のように原盤制作は渡辺音楽出版が行っていた。

東芝音楽工業の躍進を数字で見ると、創立5周年を迎えた昭和40年度上期(1965年10月1日~66年3月31日)の売上高は、目標の25億円に対して29億円にまで達した。前年同期が14億円だったので、1年間で倍以上になっていたのである。そして創業からわずか5年、最初の大きな躓きからは3年で、大幅な黒字を達成することになった。計上利益は前期の1534万円から、1億1730万円にまで跳ね上がった。現在に換算すると10億円をゆうに上回る。

それだけ業績が好調だったならば、ビートルズの来日公演が翌年に伸びても、招聘のために多少の経費がかかろうとも、何の問題もなかったと思われる。もしも問題があるとするばらば、あまりにも人気が出てしまったことで大量の観客を収容する公演する場所を確保する難しさだけだった。アメリカでは5万人収容のシェイ・スタジアムがコンサート会場になっていたのだ。

東芝レコードが来日公演を実現させる目的は、もっとも大切な顧客である少年少女たちの夢と願いを叶えることにあった。それがビートルズのレコード売上を伸ばすことにも直結していた。だから信頼の置ける新興楽譜出版社の草野昌一を通して、もっとも多くのビートルズ・ファンが読んでいる雑誌『ミュージック・ライフ』に、情報提供や広告出稿で便宣を図っていた。それが世界初の単独インタビューという快挙に結びついた。

それともうひとつ、石坂の思いとしてはビートルズが持っているほんとうの音楽の素晴らしさを、より多くの人たちに発見してもらうことにあった。これまで関心を持たなかった大人たちにも、クラシック音楽にも通じる音楽そのものの魅力に気づいてもらいたかった。

範一郎がヨーロッパ歴訪の旅に出発したのは1965年7月11日だったが、それよりも1ヶ月前に簡潔なコメントが週刊誌に載った。

できることなら、今年の10月に呼ぼうとも思っていましたが、彼らのスケジュールからいって無理なのです。そこで来年には何とか実現させたい、という願いはあります。でも、すべては会ってみてからでなければわかりません。
(『ヤングレディ』1965年6月14日号)

「来年には何とか実現させたい、願いはあります」という言葉からは、決してあきらめていない意志が感じられる。そしてその願いは1年後に叶えられることになるのだ。

範一郎は日本のレコード・マーケットがいかに成長しているのか、そして将来にも大きな可能性が広がっていることを、レコードの発売元であるEMIだけでなく、マネージメントを行っているNEMSや、音楽出版の権利を持っているノーザン・ソングスに理解してもらう必要があった。

イギリスの音楽出版社は著作権の登録や楽曲の管理だけでなく、ラジオのオンエアやテレビ出演のお膳立てなども仕事の範疇にしていた。ブライアン・エプスタインがレノン&マッカートニーの権利をディック・ジェイムに渡したのも、彼が電話一本で全国ネットのテレビ番組に出演させる話を決めてくれたからだった。

ディックはブライアンのNEMSと共同で1963年2月、音楽出版社のノーザン・ソングスを設立した。そこには著作権者であるソングライター、ジョン・レノンとポール・マッカートニーも株主に加っていた。東芝音楽出版の社長としての石坂は、ノーザン・ソングスとの間に日本におけるサブ・パブリッシャーの契約を交わしているパートナーでもあった。

→次回は2月13日更新予定

文 / 佐藤剛
最上部の写真:提供 / 毎日新聞社

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。 著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『歌えば何かが変わる:歌謡の昭和史』(篠木雅博との共著・徳間書店)。

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