ビートルズの武道館公演を実現させた陰の立役者たち  vol. 32

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「三菱銀行との取引は一切まかりならん」

「三菱銀行との取引は一切まかりならん」

第4部・第31章

東京オリンピック開催を目前に控えて、日本中が躁状態になっていた1964年の夏、「太陽の彼方に」がヒットしたことからエレキ・ブームの前兆は始まった。アメリカでビートルズがヒット・チャート1位から5位までを独占し、人気が爆発していたときに日本では、アメリカでは無名のアストロノウツの曲が大ヒットしていた。

アストロノウツはロックンロールバンドとしてスタートしたが、サーフィン・ブームにあわせて1963年に「サーフィンNo.1(BAJA)」でデビューした。かろうじて全米チャートの94位に顔を出したが、その後はまったくヒットに恵まれなかった。

ところが日本のレコード会社のディレクターによってアルバムの中から「Movin’」という曲が発見されて、「太陽の彼方に」というタイトルを付けられてシングルが発売された。エコーを聴かせた軽快なエレキサウンドは、日本人の耳に「ノッテケ ノッテケ」という音にも聞こえて親しみやすかったのか大ヒットになった。そこで複数の日本語カヴァーヴァージョンも作られて、いよいよエレキブームが準備されたのだ。

シアトルのローカルバンドだったベンチャーズは1960年に「急がば廻れ(Walk Don’t Run)」で、ビルボード誌のヒットチャートで第2位を記録するヒットを放っていた。初期のベンチャーズのメンバーはドン・ウィルソンとボブ・ボーグル、ギタリストの2人が基本でレコーディングにはスタジオ・ミュージシャンたちが参加していた。アメリカでのライブはドラムとベースが加わったが、メンバーは不特定だった。

彼らが初来日した1962年にはベースのノーキー・エドワーズとドラムのホウィー・ジョンソンも正式メンバーとして加入していたが、その時には招聘する側の予算の都合で2人だけの来日となり、ベースとドラムは日本で探すことになった。しかし当時はまだ日本にエレキ・ベースを持っているミュージシャンは、ほとんどいなかった。彼らを呼んだプロモーターの永島達司はベーシストを探したが、エレキベースを弾いたことのないミュージシャンしか見つからなかった。なんとか調達したフェンダーのエレキベースを演奏させてみても、弾き方がわからなかったという。

東芝レコードのイベントに参加したものの、このように日本で起用されたミュージシャンたちは力量不足で、まともに演奏できなかった。結局ドンとボブの2人で演奏することになり、ベンチャーズらしいサウンドの魅力を伝え切れなかった。

ベンチャーズの人気が急に高くなったのは、アストロノウツの「太陽の彼方に」がヒットした1964年の秋頃からで、エレキギターのサウンドを前面に出した「急がば廻れ」と「パイプライン」に注目が集まった。アメリカでの実績はベンチャーズが断然上だったので、東芝レコードもプロモーションに力を入れて、1965年1月5日に勝負曲の「ダイヤモンド・ヘッド/朝日のあたる家」を発売することにした。

そのタイミングで1月3日から10日まで、アストロノウツとベンチャーズによる初の来日合同公演が決まった。日本でエレキブームが爆発したのは、まさにこの時からである。コンサートは大変な評判を呼び、最終日となった10日の東京厚生年金会館は昼夜の2回公演がどちらも超満員になった。

モズライトのギターによるダイナミックなサウンドで、ベンチャーズの「ダイヤモンド・ヘッド」は大ヒットした。こうして1965年の前半から空前のエレキブームが起こり、全国各地に次々にアマチュアバンドが誕生した。これは現在の音楽のブームよりも遥かに大きな規模だったことから、熱狂する若者たちだけでなく、渋い顔をする大人たちを巻き込んで社会現象にもなっていった。

エレキブームはかつてのロカビリーなどと違って聴いて楽しむだけではなく、若者たちがみずから楽器を手にとって音楽を始めることにつながっていた。その点では加熱していたビートルズの人や、大学生たちの間で流行していたフォークソングのムーブメントとも、根底ではつながるものであった。

再び来日したベンチャーズの公演は大都市ばかりでなく、全国の主要都市をまわるものとなった。必ずしもそれに刺激されたわけではないが、地元のバンドによるエレキパーティが各地で開催された。その中にはシンナー遊びや睡眠薬遊びをする者も出て、次第に非行化が問題視されるようになっていく。そして「青少年の非行化と不良の温床だ」という見地から、エレキブームは強い偏見にも晒された。

栃木県足利市の教育委員会がエレキ追放運動を開始すると発表した途端に、いわゆる「エレキ禁止令」が全国に飛び火していった。エレキブームは青少年の教育上好ましくないとして、小学生から高校生を対象に「エレキ楽器を購入」「バンドを結成」「エレキ大会に出場」を禁止した。これは1965年10月19日の朝日新聞の社会面でトップに掲載されるほどの社会問題となった。

その年の夏にはアマチュアのエレキ・バンドによるコンテスト、「勝ち抜きエレキ合戦」がフジテレビで始まった。これを契機にその年の夏にエレキブームはピークに達した。

そうした世相のなかで「大東芝」のなかにも、クラシックやシャンソンならともかく、ビートルズやベンチャーズという騒がしい不良向けの音楽で、少しばかりの利益を上げたのをいいことに「やくざな仕事」である興業にまで手を出すのはいかがなものかと、案じている幹部たちもいたのだ。

その筆頭に目されていたのが最大の実力者だった当時の会長、経団連の会長でもあった石坂泰三である。良心的な芸術作品なら赤字を出しても絶対に潰させないと、日ごろから言っていた泰三も、不良の温床となるエレキバンドについては頭が柔らかくはなかった。

そもそも当時の興業という言葉には、江戸時代から続いてきた「やくざの仕事」というイメージが、抜き難くつきまとっていた。現実に神戸の山口組が美空ひばりの西日本の興業を仕切り、三代目組長がマネージャーを務めるなど、そうした面は芸能界のあちらこちらに歴然と残っていたのだ。

若くして興行会社を起こしてベンチャーズを招聘していた永島達司も、三菱銀行の重役だった父からはこうきつく言われたという。

「三菱銀行との取引は一切まかりならん」

→次回は2月16日更新予定

文 / 佐藤剛
最上部の写真:提供 / 毎日新聞社

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。 著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『歌えば何かが変わる:歌謡の昭和史』(篠木雅博との共著・徳間書店)。

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