ビートルズの武道館公演を実現させた陰の立役者たち  vol. 34

Other

来日記念盤として企画された『ザ・ベストオブ・ザ・ビートルズ』

来日記念盤として企画された『ザ・ベストオブ・ザ・ビートルズ』

第4部・第33章

石坂範一郎がヨーロッパに出発する7月よりもずっと前の段階で、東芝レコードはビートルズの来日が実現した場合に備えて、来日記念アルバムの準備を始めていた。そのなかにあったのは日本独自のベスト盤、『ザ・ベストオブ・ザ・ビートルズ』を発売する計画だった。

その来日記念アルバムをめぐって当時の担当ディレクターだった高嶋弘之が、こんなエピソードがあったということを来日50周年の新聞取材で明らかにしている。

ビートルズ人気が日本でも急上昇中だったその前年、高嶋さんは「ザ・ベストオブ・ザ・ビートルズ」と名付けたLPレコードの発売を企画する。「抱きしめたい」「プリーズ・プリーズ・ミー」など全16曲のヒットナンバーを集めた「日本独自のベスト盤」だ。
ところが、発売前に本国(イギリス)のレコード会社、EMIから待ったがかかる。はっきりした理由も示されず、とにかく「だめ」の一点張り。高嶋さんは納得できなかった。「まだ人気がなかった初期の頃、僕は日本独自のLPを5枚も作っている。そのときはOKだったのに、人気が出たらダメだというのはおかしいでしょ」
高嶋さんは、ビートルズをあの手この手で日本に売り込んだ男である。ビートルズカット、ルックをPRしてアイドル化を図り、電話リクエストやレコードコンサートで人気に火をつけた。
(2016年6月24日 産経新聞)

これは当初、1965年10月を想定して進めていた日本公演と連動して企画された来日記念盤だった。しかし10月の日本公演を白紙にせざるを得なくなったことで、『ザ・ベストオブ・ザ・ビートルズ』は編成上は延期という扱いで、中止にはせず発売の可能性を探っていたのであろう。

しかしこの企画が表に出ていくことになれば、東芝レコードが極秘に進めている交渉や、内容の一部が社内に伝わるということでもある。そうなると外部に情報が漏れてしまう可能性が出てくる。中高生のエレキ禁止令が取り沙汰されるなど、社会的にはますます風当たりの強い状況にあったので、情報がマスコミに流れることは絶対に避けなければならない。

なんとしても来日公演を成立させるためには、経団連の会長として政財界に睨みをきかせる実力者、石坂泰三の了解を得て関係各所の協力を取り付けることが必須条件だった。その前に社長である土光敏夫はじめとする親会社の幹部の介入を招いたりしたのでは、計画はいつ水泡に帰してもおかしくない。とにかく必要以上に目立たないようにして、粛々と準備を進めることが大事だった。

ビートルズにまつわる重要な情報が外部に漏れるとすれば、それは東芝レコードの社内の人間からしかありえない。2月に日刊スポーツが出したスクープ記事がそうだったように、マスコミなどの外部だけでなく、社内にこそもっとも注意を払わねばならないのだ。

範一郎は久野元治会長と相談の上で、そこから先の交渉を完全に一人だけで進めていくことを決めたのではないか。そして社員はもちろん、他の取締役にも進行状況を明かさず、誰もわからないように水面下で事を運ぶ方法を二人は選んだに違いない。では具体的にどうしたのかを考えていて、ぼくは以前に長女の石坂邦子さんから聞いた、少し風変わりなエピソードを思い出した。

久野会長と範一郎は社員を前にして話しをするとき、しばしば流暢な英語で会話をしていたというのだ。そして途中からラテン語に切り換えて話したりすることがよくあったというのだ。それがなぜだったのかと不思議に思っていたことと、邦子さんが語ってくれたことがあったのだ。

ぼくはその話を聞いて、明治生まれの知識人の教養の深さに驚いた。だがどうして社員を前にして、わざわざラテン語で話したのかを深く考えることはなかった。

しかし情報漏えいを防ぐためだったのではないかと、ここにきてようやく理解できたのである。まわりの役員や社員に交渉の進捗状況を感付かれないようにするためには、来日に関連する話も出てくるEMIやキャピトル絡みの話などは英語で進めて、特に秘密にしなければならない部分になると、二人にしかわからないラテン語を使ったと考えると、合点がいく話しである。

二人がそこまで情報の漏洩に気をつけねばならなかったのは、ビートルズの来日公演が実現する可能性が高くなり、細部の詰めに入っていたからだろう。アメリカで1965年8月15日に開催されたニューヨークのシェイ・スタジアム公演の直前に、ビートルズのメンバーが早くも来日について、公式の場で発言し始めていたのである。

→次回は2月23日更新予定

文 / 佐藤剛
最上部の写真:提供 / 毎日新聞社

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。 著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『歌えば何かが変わる:歌謡の昭和史』(篠木雅博との共著・徳間書店)。

vol.33
vol.34
vol.35