ビートルズの武道館公演を実現させた陰の立役者たち  vol. 37

Other

日本人であることを意識した高嶋弘之が手に入れた「気づき」

日本人であることを意識した高嶋弘之が手に入れた「気づき」

第4部・第36章

高嶋弘之は1966年1月下旬から2月上旬にかけて3週間、イタリアEMI(ヴォーチェ・デル・パドローネ)からロンドンのEMI本社に行って、さらにドイツEMI(エレクトローラ)とフランスEMI(パテ・ マルコーニ)をまわる、まったく一人旅の海外出張に出発した。その目的はEMI各社の国際部長との親交を深めてくるという、いまひとつよくわからない曖昧なものだった。

まず最初に向かったイタリアでは、自分でスケジュールに加えたサンレモ音楽祭に足を運んだ。日本からやって来ていた文化放送の金子ディレクターと運良く連絡が取れて、彼らの一行と合流することできた。そこでは東宝映画と日劇のプロデューサーだった山本紫郎、作曲家の重鎮である古賀政男といった大御所たちとも一緒になった。基本的に日本語で話せたこともあって、この旅行中で唯一、楽しいひとときを過ごせた。高嶋はその時のことを思い出して、2016年6月に自分のブログで、こう述べている。

当時は カンツォーネ・ブームだったので、今から思えば勝手にサンレモ行きを加えました。この年、サンレモでは、ジリオラ・チンクエッティが「愛は限りなく」を歌って優勝。音楽祭は3日間、感動のステージでした。
(高嶋塾「ビートルズ 来日50周年」2016.06.13)

初対面だった古賀政男とも、音楽祭の合間にサンレモの裏町を歩いてピッツァを食べたりできたおかげで「もう何年も存じ上げているような親しみがもてた」ことは、目に見えない収穫になった。古賀政男がいかに音楽を大切にしているかについても知ることができて、日本人のための歌作りに生涯を捧げた音楽家の本質を理解できた。サンレモ音楽祭が終わって一行と別れるときは、古賀から「また日本でお会いしましょうね」というやさしい言葉をかけられて、これから一人旅になる淋しさがつのったという。

高嶋はニースを経由してミラノに飛び、一人でホテルにチェックインした。

華やかなサンレモの後、ミラノのホテルに一人入った時には「これからが俺のヨーロッパ旅行だ。EMIの人に会うのだ」という切迫した気持ちになった。サンレモではすっかり忘れていた言葉の問題をまた思い出した。夕暮れの街は、二十メートル先も視界がきかないような深い霧にすっかりおおわれていた。これからのEMIまわりを象徴するようであった。
718dk7fq9bl

高嶋弘之著
「「ビートルズ!」をつくった男~レコード・ビジネスへ愛をこめて」

DU BOOKS

そしてミラノでヴォーチェ・デル・パドローネを訪問した後、いよいよロンドンに渡るという時は緊張すると同時に、英語ができないことの不安でかなり心細くなった。そもそも各国の海外部門の担当者と親交を深めるだけなのに、無言のプレッシャーを受けているような出張だった。

さあ、これからEMI訪問が始まる。特定の仕事はなかったが、親交を重ねてこいというのが余計にこたえた。チョンボはできない。
(同上)

ロンドンで高嶋が会ったEMIのスタン・スターン国際部長は、「ミュージック・ライフ」のビートルズ独占取材をセッティングした人物で、温和で親切な紳士だった。高嶋と挨拶を交わしたスターンはすぐその場で、希望するプロデューサーたちとの面談やEMIの工場見学、ミュージカル『オリバー!』や『サウンド・オブ・ミュージック』などの観劇をスケジューリングしてくれた。そして出発前に久野元治会長から理由が分からないまま叱責を受けた、ビートルズがいつも使っているEMIスタジオの見学についても、高嶋に録音風景を見せるように計らってもらえたのだ。

スタジオではロックバンドのマンフレッド・マンがレコーディングをしていた。高嶋は8チャンネルのマルチテープなのに、演奏を録音してから歌をダビングするのではなく、ヴォーカルも同時録音だったのが印象に残ったという。

もう一つ気づいたのはミュージカルに関してのことだった。ウエスト・エンドでの『サウンド・オブ・ミュージック』を観て、高嶋は日本も満更ではないと思ったのである。実兄である俳優の高島忠夫はちょうど1年前の1月から2月にかけて、日比谷芸術座で上演された日本における『サウンド・オブ・ミュージック』の初演で、主役のトラップ大佐を演じていたので比較することができた。

兄がトラップ大佐をやっていたので、興味をもって見たが身びいきなのかどうか、日本のほうが華やかだったように感じた。新聞評などで、日本はまだ本場にはかなわないと書かれていたが、ロンドンはブロードウェイほどではないにしろ、日本も満更ではないと思った。
(同上)

こうしたことはロンドンまで来て、自分の目で直接確かめないと絶対にわからないものだった。このあたりから高嶋の気持ちのなかに、日本人にも出来るという気持ちが芽ばえてきた。日本人のための歌を追求してきた作曲家、古賀政男との出会いと人柄への親近感なども、いくばくか影響していたのであろう。

久野会長から釘を差されたことで“チョンボはできない”というプレッシャーがあったロンドン滞在が終わり、高嶋は形ばかりの親善でドイツのエレクトローラを訪れたのちにパリに到着した。そして空港で出迎えてくれた日本人女性の明るい笑顔を見て、一気にそれまでの緊張が解けたという。その後も元の同僚だった女性ディレクターに再会し、フランス人と結婚してパリジェンヌとして生きている姿に励まされた。

そうした体験からヨーロッパでの自分がふだんよりも、“日本人である”ということを強く意識していることに気づいた。そうした思いが日本に帰国した後も消えなかったことで、宣伝マン的な色合いが強い洋楽のディレクターではなく、アーティストの才能を見抜いてそれを引き出す邦楽制作の道を高嶋は歩むことになっていく。

それまで走り出してから考えるタイプだった高嶋は、日本の歌について“歌詞にはもう少し人間を出した方が…”などと考えるようになったという。洋楽を宣伝して売るだけでなく、日本人の音楽を作ることに意識が向かった。

外国の音楽は、いくら日本でヒットさせてもやはり外国の音楽。洋楽のディレクターといっても、所詮は、まわりで踊るだけ。ディレクターは日本人の音楽を作らなくては。ヨーロッパ旅行やビートルズの来日によって決して洋楽ディレクターの仕事が嫌になったわけではない。それが証拠に、帰国後も洋楽にハッスルしていた。
しかし日本の流行歌を聞いても、以前は全く自分の仕事ではないと思っていたのとは違って、この歌にはこんなリズムの方が……、ここはハモらせた方が……、歌詞にはもう少し人間を出した方が……、などと考えるようになっていた。同時に以前は洋楽を聞いても、単に日本では無理、日本ではヒット間違いなし、と区別していたのとは違って、ここをこうすれば日本でも売れるのになあ、と考えるようにはなっていた。
(同上)

“当社は別に何も期待していない”と久野会長に言われた海外出張で、高嶋はミュージックマンとして大切な「気づき」を手に入れたのだ。そしてその「気づき」から日本人の音楽を作るために、自ら開拓してきた人と人とのつながりで、ビートルズの来日公演が終わった後に邦楽制作を始めることになる。

ヨーロッパから帰国して1年後、高嶋が初めて手がけた邦楽アーティストの黛ジュンは、デビュー曲「恋のハレルヤ」が大ヒットしてたちまちスターになった。続く「霧のかなたに」と「乙女の祈り」をヒットさせた黛ジュンは、1968年に出した4枚目のシングル「天使の誘惑」で第10回レコード大賞を受賞した。

東芝音楽工業を設立する以前の準備段階で、石坂範一郎が邦楽制作を軌道に乗せることに苦労していたとき、希望と勇気をもたらしてくれたのが第一回レコード大賞を受賞した「黒い花びら」だった。そこから数えてちょうど10年目の快挙で、高嶋は邦楽の制作者として大きな勲章をもらうことになった。

高嶋はさらにその年の秋にラジオから火が点いてリクエストが殺到し、レコード各社が争奪戦を繰り広げた「帰って来たヨッパライ」の契約をものにしている。そして「天使の誘惑」がレコード大賞を受賞した4日後の12月25日、ザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」が発売になった。話題のレコードは怒涛のように売れて、当時史上最多のシングル売り上げを記録する。

キャピトル・レーベルを使った邦楽制作の大ヒットが続き、高嶋は東芝レコードの邦楽制作部門に新しい風を吹かせた。そして課長となっていた洋楽3課は多額の収益をあげて、東芝音楽工業の発展に大きく寄与したのだった。

→次回は3月6日更新予定

文 / 佐藤剛
最上部の写真:提供 / 毎日新聞社

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。 著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『歌えば何かが変わる:歌謡の昭和史』(篠木雅博との共著・徳間書店)。

vol.36
vol.37
vol.38