ビートルズの武道館公演を実現させた陰の立役者たち  vol. 38

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主催者と武道館の使用をめぐって生じた諸問題

主催者と武道館の使用をめぐって生じた諸問題

第4部・第37章

それでは高嶋弘之がヨーロッパを回っている間、日本では何が行なわれていたのか。それは来日公演を実現させるために準備しなければならない最後の難関、すなわち表立って動くわけにはいかない東芝レコードではなく、対外的に信用のおける主催者を決めて公演会場となる日本武道館の使用を認めてもらうことだった。

1965年12月29日にデイリースポーツが伝えた「来秋、ビートルズを日本へ派遣する」という記事は誰がみても、当事者だった東芝レコードから漏れた内部情報としか考えられない。その線を辿って行けば漏洩元は明らかになるだろう。しかしそれを追求したところで、いまさらプラスになることはなかった。なぜならばアメリカのキャピトル・レコード会長とイギリスのEMI会長、そして東芝レコードとの3者による話し合いによって、記事が報じたとおりにその時点でビートルズの訪日は内定していたのだ。

記事が出てから3ヶ月半後の1966年3月15日に名前が出ていた当事者の一人、イギリスEMI会長のジョセフ・ロックウッド卿が日本を訪問している。その際に羽田空港で開かれた記者会見の場で、「来日は11月頃に内定していた」と交渉の経緯を明らかにした。つまり時期が少し繰り上がったことを除けば、デイリースポーツの記事は全て当たっていたのだ。

逆に言えば記事に書かれていなかったこと、つまり公演の場所だけがまだ内定していなかったことになる。会場に関する交渉となれば海外とのやり取りと違い、国内に相手がいる分だけ情報が外部に漏れる可能性は高い。東芝レコードだけでなく交渉相手、もしくはその関係者への注意と箝口令が必要になる。会場問題を早く解決して受け入れる側の体制を固めて、ビートルズ側とのスケジュール調整をすることが課題だった。

そして年が明けた1月2日に放送されたTBSテレビの特別番組『佐藤首相にきく』で、新しい首相の口から気にかかる発言が飛び出したのだ。総理大臣に選ばれて間もない佐藤栄作が首相官邸ホールからの生中継で、「首相はビートルズがイギリス国王から勲章もらったことをご存知ですか」という質問に、「いや、知りません。私はエレキは感心しない」と答えたのである。

これは下交渉をしていた石坂範一郎にとっても気にかかるものだった。

自由民主党の政治家だった佐藤栄作は1964年7月、「所得倍増計画」を打ち出して財界からの支持を得ていた池田勇人首相の3選阻止を掲げて、総裁選挙に出馬して戦った。この時の選挙戦は守る池田と攻める佐藤という構図で、そこに佐藤の実兄で自民党の長老として力を誇示していた岸信介が、藤山愛一郎を推したことで三つ巴の激しい攻防戦になった。そのなかで各陣営から現金が飛び交ったが、過半数をわずかに超える辛勝で池田が続投することになった。

ところがそれから半年もしないうちに池田がガンに冒されていることが判明し、首相の激務には耐えられないと辞任することになった。そこで選挙戦で二位となった佐藤のところに、首相のポストが転がり込んできたのである。そして東京オリンピックが終わった1964年11月9日新内閣が誕生した。三期目にして倒れた池田と、その後を引き継ぐことになった佐藤は、ともに保守本流の自由党出身で吉田茂元首相の門下生だった。

戦後復興を成し遂げた吉田茂政権を一貫して支え、政治献金によってバックアップしていたのは経団連を筆頭とする財界の首脳たちである。なかでも最も大きな影響力を持っていたのが、“財界総理”の名で通る石坂泰三だった。東芝の社長だったときには吉田茂から大蔵大臣になってほしいと頼まれたこともあった石坂泰三は、政治嫌いだったのでそれをきっぱり断っていた。だが経済は自由が原則という信条で吉田からの信頼が厚く、日本の将来について二人で語り合う間柄にあった。

東芝の社長を退いた後に経団連の会長に就いてからも、石坂泰三は政治とは距離を置きながら日本経済の舵取り役を務めてきた。1956年に経団連の会長に選ばれて6期12年、“財界総理”としてリーダーシップをとった彼が手がけた大きな仕事のひとつが、1964年の東京オリンピック開催だ。ミュンヘンで開かれたIOC(国際オリンピック委員会)総会で、1964年のオリンピック夏季大会を東京で開催することが正式に決定されたのは1959年のことだ。しかしまだ復興半ばにあると感じていた大多数の国民にとって、この決定は寝耳に水の出来事で、女優の高峰秀子は朝日新聞の紙上で「十年早い」と返上を訴えた。同じく開催反対論を唱えた経済評論家の小汀利得は、のちにビートルズ来日が決まった時にも反対した。当時の日本の経済力ではオリンピックの開催に必要な経費をまかなうことが難しい、そんな懸念が強かったのだ。

しかし政府は五輪担当大臣のポストをつくり、自民党や官僚たちをまとめて、開催に向けて準備を進めた。国立霞ヶ丘競技場、日本武道館、駒沢競技場、国立代々木競技場といった施設を建設するための総工費だけで、160億円もの資金が必要だった。それらの施設の整備や運営資金については、民間から資金を調達する必要があった。五輪担当大臣のポストに就いて実施の一切を仕切ったのは、当時の岸首相の弟で自民党の実力者だった佐藤栄作である。

開催の実現を疑問視する声も少なくない状況で、世論をオリンピック待望論へと誘導したのは、自民党の政治家でもある正力松太郎が率いる読売グループだった。そして資金不足を補うために名乗り出て財界をまとめたのが経団連で、オリンピック資金財団会長を引き受けたのは石坂泰三だった。政界の佐藤栄作や正力松太郎、財界の石坂泰三は資金を集めるだけでなく、資金調達のために各種の活動も各所に働きかけた。

東京オリンピックに間に合わせるべく急ピッチで建設が進められた日本武道館は、建設費用20億円のうち、国費から10億円、農水省管轄の日本中央競馬会と東京都が中心となって運営していた南関東競馬から5億円を賄った。そして残りの5億円を財界などの寄付によって補った。そんな経緯で完成した日本武道館だったので、過去のつながりや立場からみても石坂泰三が動けば、日本政府も動かざるを得ないという関係にあったのだ。

日本武道館はその名の通り、日本の武道の館である。敷地の一方は靖国神社へとつながり、北の丸公園を通じて、反対側は皇居につながっている。毎年8月15日には、政府が主催する戦没者追悼式場も執り行われる。

オフィシャルサイトには「沿革」としてこう書いてある。

富士山の裾野を引くような流動美の大屋根に武道の精神を表徴して、日本武道館は壮麗雄大な姿を皇居・北の丸の杜に現わしています。この日本武道館は、武道を愛好する国会議員各位の熱意と、政府、財界並びに国民の総意による力強い支援によって創建されました。建設は、天皇陛下の御下賜金のもと、国費と国民の浄財およそ20億円をもって、1963年(昭和38年)10月に着工、工事期間わずか12ヵ月、関係者の昼夜を分かたぬ奮闘によって、1964年(昭和39年)9月、世界に誇る日本武道の大殿堂が見事に完成しました。

政府と財界、それに天皇陛下の御下賜金で作られたこともあって、ビートルズの公演を行なうとなれば、商業的なコンサートでエレキギターを使うことから、強い反対が出てくることは容易に予想できた。そこで会場の使用に影響力を持つ人物たちを味方につける必要があった。そこさえしっかり押さえていれば、事前に武道館のスケジュールを把握して候補日を確保しておける。

武道館設立に動いた超党派の議員連盟の代表者は正力松太郎である。そして当時の五輪担当相だった佐藤栄作も、政府側の責任者として関わっていた。二人のなかでは自分が武道館を作ったと公言して憚らない正力が、最も影響力を持っているのは明らかだった。

1913年に東京帝国大学を卒業して警視庁に入庁した正力松太郎は、内務官僚となってエリートコースを歩んでいた。だが1923年に摂政宮皇太子(のちの昭和天皇)を狙ったテロ事件が起きて、順調だった人生が大きく変えられた。24歳の難波大助がステッキ銃を使って摂政宮皇太子を狙撃した虎ノ門事件は、その日のうちに内閣が総辞職したほど大きな衝撃を与えた。皇室警護の最高責任者だった正力も、ただちに懲戒免官されたのだった。

浪人になった正力は政治家の後藤新平や日本工業倶楽部の支援のもとで、弱体だった読売新聞を引き受けて経営者の道を歩み始める。そして紙面の大衆化を図って成功し、戦前から戦時中にかけて発行部数を大幅に伸ばした。戦後も読売グループを拡大しながら新聞王となる一方で、日本テレビ放送網を作ってメディア王とも呼ばれるようになっていく。

周囲の反対を押し切って正力がテレビの民間放送を始めたとき、もっとも普及に効果があったのは繁華街に設置した街頭テレビだ。そこでプロ野球の読売ジャイアンツの試合や、力道山のプロレスを実況放送して大衆の心を掴んだ。この時には石坂泰三が社長だった頃の東芝から、テレビ受像機を提供してもらった。

正力が総理大臣を目指して政治に進出したのは1955年で、原子力平和利用をスローガンに故郷の富山県から衆議院選挙に出馬して当選した。すでに70歳と晩年になっていたにもかかわらず、「総理大臣になる」という強い権力志向と旺盛な好奇心は衰えなかった。翌年には1回生の陣笠議員でありながら、いきなり大臣に抜擢されて科学技術庁長官に就任する。さらにその翌年には国家公安委員長と原子力委員会委員長を兼任し、ここから警察へも強い影響力を発揮するようになった。

原子力発電とのつながりも強く、1956年の1月に「5年以内に採算のとれる原子力発電所を建設したい」と正力が記者団に向かって発言したことで、産業界にも拍車がかかって三菱重工業による三菱原子動力委員会には旧三菱財閥系23社が顔を揃えた。次に日立と昭和電工による16社の東京原子力産業懇談会が発足、住友系14社の住友原子力委員会が続いた。そして1956年6月、東芝など三井系37社の日本原子力事業会がつくられた。こうしてつくられた原子力ムラは、イコール経団連という形になっていくのである。

そうした背景を見ていくと表のキーマンが読売新聞社主の正力松太郎で、裏のキーマンは”財界総理”のトップにいた石坂泰三だということが浮かび上がってくる。

→次回は3月9日更新予定

文 / 佐藤剛
最上部の写真:提供 / 毎日新聞社

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。 著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『歌えば何かが変わる:歌謡の昭和史』(篠木雅博との共著・徳間書店)。

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