ビートルズの武道館公演を実現させた陰の立役者たち  vol. 39

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来日報道から始まったマスコミ狂想曲

来日報道から始まったマスコミ狂想曲

第4部・第38章

高嶋弘之が帰国してから2週間の間、ビートルズの来日に関しては日本では何の動きもなかった。ところが3月に入ってすぐに、イギリスの音楽誌「ニュー・ミュージカル・エクスプレス」(NME)で、ビートルズが日本で公演を行う予定だという記事が掲載された。ブライアン・エプスタインの話として表に出てきたそのニュースは、アメリカのUPI通信を経由して3月4日に外電として国内の三大紙、朝日・毎日・読売新聞に掲載された。

ビートルズ日本公演をめぐって巻き起こったマスコミ主導の狂想曲が、ここから始まっていったのである。それでは1966年の来日公演が決まるまでの動きを、大村享の労作「ビートルズと日本」(シンコーミュージック刊)を参考にして時系列で見ていこう。

3月4日
◎ビートルズが今夏訪日予定という記事が国内各紙に掲載される。
この日、3大紙全てが夕刊でビートルズが来日予定であるという記事を掲載した。これは共同通信社経由でロンドンUPIから配信された外電記事で〈略〉ビートルズが8月に北米ツアーを行う予定であり、その前に日本を訪れることになるだろうというビートルズ側のコメントが掲載されており、それを受けての報道だった。

大村享著
「ビートルズと日本」熱狂の記録

シンコーミュージック

これについて報知新聞が翌日の朝刊で、東芝レコードの高嶋からコメントをとって記事にまとめている。ここでは担当ディレクターにもかかわらず、真偽があいまいなまま仮定の話だけに終始しているのがわかる。立場的に話せなかったのか、あるいは知らなかったのかは定かでない。

ウチとしても、再三にわたって来日を交渉したが、ラチがあかず、あきらめていたところです。ただ、マネージャーはひどくムラ気なところがある人だそうですから、来日の意思を語ったということは十分に考えられます。ただ、それだからといって来日が決定したとはいい切れないでしょう。実現すれば、私どもにとってこんないいことはありませんが…。
(報知新聞3月5日)

外電のニュースを目にした時点で、新興楽譜出版社の草野昌一は情報の確認を急いだ。確認する相手は東芝レコードの石坂範一郎専務であり、ミュージック・ライフが独占取材をさせてもらって以来、ビートルズ側の窓口となっているNEMSの広報担当トニー・バーロウだった。だがさすがにこの段階では、両者ともノーコメントだったに違いない。

しかしミュージック・ライフの編集部には、「夏に来日か」という新聞情報を得たファンからの問い合わせが殺到した。編集部の電話が朝から鳴りっぱなしになり、対応した編集部員が倒れてしまうほどだった。そこで草野はニュースの火元になったNMEに、直接自分が電話して確認を取ることにした。するとビートルズと親しい関係にある記者、クリス・ハッチンスにアポイントメントがとれた。

3月7日
◎新興楽譜出版社専務・草野昌一氏が英『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』のクリス・ハッチンス記者に電話取材。
『ミュージック・」ライフ』は、4日の報道の真相について、草野昌一専務を通じて『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』に確認をとった。19時頃から約5分ほどの短いものだったが、一連の内容は『ミュージック・ライフ』66年4月号に掲載されている。電話の相手は同誌と交流のあったクリス・ハッチンス。ビートルズのアメリカ・ツアーの同行取材をしたり、65年8月27日に行われたビートルズとエルヴィスの会見の場にも立ち会っていた人物である。
ハッチンスは、訪日の情報はエプスタインから個人的に聞いたものであること。ジョンが日本に行くのを楽しみにしていること、訪日時期は不確定だが6月頃と思われることなどを話した。
その後もハッチンスからは継続して情報が提供されており、具体的な内容は不明ながらも《それ以来、彼からの電報を始め、ロンドンからは毎日のように特別航空便が到着して、編集部スタッフ一喜一憂》だったと伝えられた。
(大村享 著「ビートルズと日本」シンコーミュージック刊)

そして翌日、NEMSから草野のところに、問い合わせに対する正式の返事が届いたのである。

3月8日
◎新興楽譜出版社宛にエプスタインの秘書、ウェンディ・ハンソンから電報到着。
この電報の実物は『ミュージック・ライフ』66年4月号に掲載されている。《映画のスケジュール(があくの)を待っているので、ビートルズ日本公演の最終的な日取りは決まっていません》という内容。これが届いた経緯は書かれていないが、文面からするに、事前に問い合わせをしていた日本公演のスケジュールに関する返信なのだろう。

同誌ではこの回答をもって「最終的な日程が決まっていないということは、大体の日取りを決めていることだろう」と前向きに解釈し、来日決定説を裏付ける有力な証拠としていた。
(同上)

ここまでの動きはすべてEMIやNEMS、あるいは海外取材を行って事実関係を確認したミュージック・ライフが発信元になっている。日本の窓口であるはずの東芝レコードはまったく関わっていないように見える。いずれも海外からのダイレクトな情報であり、今になってみればそれらはすべて当たっていた。

海外の関係各社や通信社を通してこうした情報を日本から解禁させることができた人物は、東芝レコードの石坂範一郎をおいては誰もいない。社内の人間にもまったく情報を漏らすことなく、範一郎は映画のスケジュールとの最終調整を残して、来日公演の決定発表にまでこぎつけたのだ。そしていよいよビートルズ来日公演の重要人物となる永島達司が、最終的な交渉の表舞台に登場してくるのである。

NEMSを主宰するビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインが協同企画(現・株式会社キョードー東京)の永島達司に日本公演の協力を要請してきたのは、3月14日のことだった。ただし実際に電話をかけてきたのはブライアンではなく、永島とは旧知の間柄だったプロモーターのヴィック・ルイスだ。NEMSに必要な新しいビジネス・パートナーとして、ブライアンが迎え入れたヴィックからの電話は深夜にかかってきた。

「実はビートルズが日本に行きたいと言っている。コンサートをやってくれないか。」

野地秩嘉著
「ビートルズを呼んだ男―伝説の呼び屋・永島達司の生涯」

幻冬舎文庫

1965年にアメリカでの仕事を終えた永島がロンドンに足を伸ばしたとき、ブッキングエージェント会社であるGACの関係者として出会ったヴィック・ルイスは、偶然にも永島が幼少の頃に住んでいたロンドンの同じ町に住んでいた。そんなことで二人は意気投合して仲良くなった。それからまもなくしてヴィックの会社がエプスタインのNEMSに吸収合併されたのは、大物になったビートルズのコンサートを扱うためだった。ヴィックはパートナーとしてNEMSの取締役に迎えられていたのだ。

そんな関係から「ビートルズが日本に行きたがっているので、やってくれないか」という電話へとつながってくる。ヴィックは当然のように永島がその申し出に飛びついてくると思っていたのだろう。ところが電話における反応がいまひとつだった。

永島は正直なところ、「できればやりたくない」と感じたという。観客動員も含めて、成功するのは当たり前だし、失敗するわけにはいかない仕事になる。ビートルズともなればギャラが相当に高いだろうし、そうなると支払いのために非合法の闇ドルを集めなければならない。

当時の日本は現在と違って使える外貨の金額が各社ごとに、大蔵省によって年間ごとに決められていて、それらを増やしたりすることはできない仕組みだった。ビートルズのような大物が3ヶ月半前になってから、急に大規模なコンサートを開催するということ自体、障害がありすぎてほとんど不可能に近いと思うのは当然だ。

たとえば当時はギャラの準備から支払い方法にいたるまで、現在よりもはるかに複雑かつ煩雑であった。正式に招聘するには外貨での支払いに関して大蔵省、入国の許可に関しては法務省の審査が必要になる。

そして大きな会場の使用許可に関しても、普通は1年ほど前から仮スケジュールを押さえたうえで、内容などに合わせて調整して決めていくものである。永島はそれらの不安材料をヴィックに告げたのではないかと考えられるのだが、とにかくエプスタインと会って直接交渉するようにと強く求められるばかりだった。

→次回は3月13日更新予定

文 / 佐藤剛
最上部の写真:提供 / 毎日新聞社

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。 著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『歌えば何かが変わる:歌謡の昭和史』(篠木雅博との共著・徳間書店)。

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