黒川文雄のエンタメ異人伝  vol. 2

Interview

ギャガ創業者 藤村哲哉氏が苦難を乗り越えて培ったビジネススキル(上)

ギャガ創業者 藤村哲哉氏が苦難を乗り越えて培ったビジネススキル(上)

音楽、映画、ゲームなどを総称するエンタテインメントは、人類の歴史とともに生まれ、時代に愛され、変化と進化を遂げてきました。

そこには、それらを創り、育て、成熟へ導いた情熱に溢れた人々がいます。これらの偉人であり、異人たちにフォーカスしインタビュー形式で紹介する「エンタメ異人伝」。

今回のゲストは、株式会社ギャガ・コミュニケーション(現在のギャガ)の創業者であり、現在はフィロソフィア株式会社・代表・藤村哲哉氏です。

日本でのレンタル・ビデオ・ブームに先駆けて、洋画作品のビデオソフト向け版権の買い付けを促進し、インディペンデント映画会社として映画配給に着手、さらに、現在はスタンダードになった「製作委員会」方式を早くから着目し大きく成長を遂げました。

現在は、ハリウッド映画製作現場と日本のコンテンツをブリッジするプロデューサーとして、辣腕を振るっています。

藤村氏は、2017年4月7日(金)より公開される「攻殻機動隊 THE GHOST IN THE SHELL」を原作に持つハリウッド版『ゴースト・イン・ザ・シェル』の日本サイドのエグゼクティブ・プロデューサーにクレジットを連ねています。

監督はルパート・サンダース、出演は、スカーレット・ヨハンソン、北野武…という話題作を手掛けた藤村哲哉氏の半生を振り返るとともに、今まであまり語られることのなかったギャガ退任後の藤村氏の沈黙の6年と、日本とハリウッドをブリッジする仕事内容を追いました。

※本記事は3回にわたってお届けするインタビューの第1回です。

インタビュー取材・文 / 黒川文雄


広島被爆二世としての少年時代を振り返る

改めて藤村さんの少年時代や、ルーツからお聞きしたいと思います。出身は広島県とのことで、失礼にあたるのかもしれませんが、ご両親は被爆をされたのでしょうか?

藤村 母親は疎開していたから被爆していないんだけど、当時、父親は三菱重工の造船所で設計の仕事をしていて、市街地じゃなくて海に面しているところで被爆しました。建物が鉄筋コンクリートで壁が厚かったから致命的なことにはならなかった。そういう意味では父親は幸運でした。

転地療養先の尾道で高校時代

転地療養先の尾道で高校時代

子供の頃、広島の街を見て原爆について何か感じたことはありましたか?

藤村 いやいや、僕が生まれたのは昭和28年で被爆してから8年も経っていたから。物心がついた頃にはさらに年月が経っていて、もう広島の街全部がリセットされたような状態だったんでね。子供心に原爆を意識したことはなかった。

身体が弱くて喘息だったので、両親と離れて尾道で暮らすようになったということですが、そのあたりのお話を聞かせていただけますか?

藤村 単純に転地療養だね。尾道は母の実家で、夏休みとか冬休みになると母は必ず帰省していた。それで、僕も一緒に行くんだけど行きの電車の中ではゼイゼイいっていたのに着いたらもう庭を走り回っていて。

そんなに違うものですか。

藤村 まあ、精神的なものも大きかったと思うけどね。母親の実家は尾道でも特に田舎で、半島の突端みたいなところにあって。海と山しかないような本当に自然に恵まれたところだったから。

自立心が養われた尾道での転地療養

ご両親と離れてそこで暮らすようになって何か変わりましたか?

藤村 自立心がすごく養われた。両親と住んでいたときは体が弱いから、特に母親が過保護でね。(苦笑) それで実家のほうに預けられたわけだけど、やっぱり母親に育てられるのとは違うんだよ、環境も周りも…。田舎だから、みんなが家族みたいなところもあったし。自然も豊富で自分の好きなことができる環境があった。

例えば、鳩を100匹くらい飼ったりとかね。

鳩を100匹ですか…?

藤村 母の実家はお寺だったから庭が広くて、そこに自分でゼロから鳩小屋を立ててね。海も近いから夏は毎日魚釣り。魚釣りの船も自作した。ドラム缶を溶接所に運んで上の部分を切って横にパイプでフロート付けて。それで、カヌーみたいにしてね。もう、それくらい好き勝手というか、自分の創造力を活かして好きなことができる環境で育った。

素晴らしいですね。

藤村 お寺には動物もいっぱいいてね。犬も猫もいたし、ウサギ、チャボ、ニワトリなんかも飼っていたし。一時はヤギもいたし、今考えるとすごくいい環境だった。

先ほど学生時代の写真を見せていただきましたが、高校時代は卓球部に所属されていたんですよね?

藤村 卓球が好きでね。尾道の公民館に卓球台があって、小さい頃からそこでよく卓球をして遊んでいたんだよ。それで卓球が好きになった。

喘息だったということでスポーツとは縁遠かったのかと思っていました。

藤村 それが逆でね。親にも祖母にも体が弱いからこそ運動やれ運動やれと言われて。それで、運動神経はあるほうじゃなかったんだけど運動部に入ったんだよ。中学のときは軟式テニス部。

中学は卓球部ではなかったんですか?

藤村 本当は卓球をやりたかったけど小さい中学だったから卓球部がなかった。それで高校で卓球部に入ったんだけど周りは中学から卓球をやっている部員ばかりで……。

みんな上手いんですね。

藤村 上手いんだよね。だから玉拾いをしてた・・・(笑)。


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