ビートルズの武道館公演を実現させた陰の立役者たち  vol. 41

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ロンドンでの直接交渉はなぜ予想外にあっけなく決まったのか

ロンドンでの直接交渉はなぜ予想外にあっけなく決まったのか

第4部・第40章

英国EMI会長のロックウッド卿による羽田での記者会見から一週間後、永島達司は3月22日に単身でロンドンに出発した。東芝レコードの石坂範一郎にとってビートルズの公演を任せられるのは、外国に出しても恥ずかしくない立派な日本人の永島を措いて他にいなかった。世紀の一大事業を委任された永島は、すっかり覚悟を決めてロンドンに向かったはずである。日本のために何としても成功させねばならない、そんな大きな責任を感じていくらか重い足取りで出発したのであろうと思われる。

永島は自分が聴いて育った古き良き時代のジャズやポピュラーソングが好みで、ポール・アンカやベンチャーズ、アストロノウツなどロックンロール以降の音楽が、実はそれほど好みではなかったという。しかしそれらのイベントに集まる観客層が、日増しにどんどん若くなっていることに気がついていた。若者たちや少年少女たちがなけなしのお小遣いをはたいて会場に集まってくる、そんな時代がやってきたことの象徴がビートルズの来日公演となる。

出発時の様子が歴史的なノン・フィクションとなった「ビートルズ・レポート」に、竹中労のペンで次のように描かれている。

黒いレインコートのえりを立てた、長身の男が、深夜の羽田空港ロビーに、ひっそりと姿を現した。
ダーク・スーツにプラック・タイ、黒に統一した粋な着こなし、四〇歳に近いだろう。連れはいない。英字新聞をポケットに無造作に突っ込み、たった一人、黙々と腕を組んだまま、もう二十分以上も立っていただろうか。
童顔に柔和な目をたたえているが、その表情は、なんとなく物憂げに感じられる。むしろ迷惑な事を引き受けたような、困惑の色さえ見える。この憂うつな男――、音楽興業会社「協同企画」を主催する永島達司である。
正確にいえば、一九六六年三月二十七(ママ)日午後十時、羽田空港発日本航空機六六便で、彼はロンドンへ単身旅立つところである。この憂うつな顔が、日本中をこれ程までにゆるがした、「ザビートルズ」の来日公演を実現させようとは、彼自身さえ、その時点では予想しなかったのだが――。
永島達司、ポピュラー音楽ファンにはかなり知られた名前だ。だが、知られているのは活字の上だけで、長身のスマートな紳士を連想するものは、ほとんどいない。彼は、人前に姿を現すのを極度にきらい、余程必要に迫られないかぎり、公式の場所に出たがらないからである。

「ビートルズ・レポート―東京を狂乱させた5日間(話の特集 完全復刻版)」
WAVE出版


永島は空港からNEMSに直行し、ブライアン・エプスタインを訪ねた。そして会ってそのまま直接交渉を行ったが、実際にはとてもスムーズに進んだと語っている。にわかには信じ難いのだがこの二人の間にはかけひき、あるいは細かな損得勘定がまったくなかったのだ。永島の一人10ドルという提示に対して、ブライアンから一人6ドル以下という返事が来たという事実がそれを証明してくれる。

ブライアンのほうからまず、「会場とギャラについての考えを聞かせてほしい」との申し出があった。それに対して永島は「コンサート会場は武道館、入場料は一人10ドル(3,600円)」と提案した。

ブライアンはそれに対して、「一人6ドル(当時)以下の入場料にしたい」と言った。

そうすると2,160円になるので、永島が10円以下を切り上げて、「それじゃあ一人2,200円にしましょう」と答を返した。

だがブライアンは「いや、2,100円だ。ナガシマ、そこから君の経費と利益を引いて残りがビートルズのギャラでいい」と言ったという。

永島が「わかりました」と答えて交渉は終わった。

ビートルズはアメリカ公演における1回あたりのギャラが4万ドルから10万ドルだった。それに比べて約三分の一から二分の一の金額で契約してくれたのだ。破格もいいところである。

そのことからは少なくともビジネスであることよりも、日本へ行くこと自体に比重がかかっていたことが伝わってくる。ビートルズはこうしてほんとうに、日本へやって来ることになったのである。

堪能な英語を駆使しての誠実な対応で知られ、ナット・キング・コールなどの大物ミュージシャンから絶大な信頼を寄せられていた永島の評価を知っていたビートルズ側は、初めから全幅の信頼を置いて交渉していたことが感じられる。だがここまでブライアンが主導して破格の条件を決めたということがわかってくると、やはり東芝レコードとの事前交渉が行われていた時点で、場所も金額もほぼ内定していたと考えたほうが理解しやすい。

永島は交渉が終わってから宿泊先のホテルにチェックインし、日本で交渉の行方を見守っている部下たちに電報を打った。そのなかで主催者を東芝レコードではなく、読売新聞にするという指示を出していたことがわかっている。ビートルズのスケジュールは6月下旬のドイツ・ツアー後が空いていて、そこで日本とフィリピンに行く予定だったようだ。

「契約OK.武道館を会場とするために読売新聞社に接触しておいてほしい。主催は東芝より読売新聞にしよう。公演回数は五回だが、当初は三回とする。その方が何度もニュースを流せるから人気をあおることができる」

野地 秩嘉著
「ビートルズを呼んだ男―伝説の呼び屋・永島達司の生涯 」

幻冬舎文庫


その一週間前に行われたロックウッド卿による記者会見では、「8月ときいている」という話だった。だがロンドンに来るまでの間に6月下旬から7月上旬で、スケジュールが出てきたことになる。

そこから推察すると、ヴィック・ルイスから「実はビートルズが日本に行きたいと言っている。コンサートをやってくれないか」という電話がかかってきたのは、ビートルズのスケジュールが6月下旬から7月上旬に決まったからだと考えていいだろう。

その時点で下準備は完了していたのだとすれば、それ以前にロンドンを飛び立ってドイツ経由で来日したロックウッド卿が、最新情報を知らなくてもおかしくない。

ヴィック・ルイスの電話を受けた永島が石坂範一郎と打ち合わせてから、武道館のスケジュールを問い合わせたという話には無理が出てくる。舞台の仕込みの日も含めて偶然、5日間も武道館のスケジュールが都合よく空いていたというのは非現実的だ。

ということは誰かが実現した6月下旬から7月上旬もふくめて、かなり前から他にも8月などで候補日をいくつか押さえておいて、ビートルズの動き次第で対応出来るような状態にしていたと考えられる。

外部に漏れないように内々でスケジュールを抑えることが可能なのは、武道館の内部もしくはかなり近い筋としか考えられない。そうだとすれば武道館に誰よりも強い権限を持つ人物で、最大のキーマンとなった正力松太郎が表に登場してくるのは自然なことなのだ。

正力は海外から持ち込んだプロ野球、プロレス、プロゴルフなどを日本に紹介し、それをイベント化することで事業を育てて、読売新聞や日本テレビを通して影響力を強めてメディア王となった。

それまでに正力が歩んできた道と仕事のやり方を精査してみれば、新聞の拡売や宣伝につながって、しかもテレビで視聴率が取れるイベントならば、エレキを使おうが髪の毛が長かろうが関係なくビートルズの話題性や、イベントとしての注目度に興味を示すだろうとわかったはずだ。

正力と読売新聞は石坂範一郎が会場を武道館にすることを想定した時点で、対外的にも信用がおける主催者として最初から不可欠な存在であったのだ。

→次回は3月16日更新予定

文 / 佐藤剛
最上部の写真:提供 / 毎日新聞社

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。 著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『歌えば何かが変わる:歌謡の昭和史』(篠木雅博との共著・徳間書店)。

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