ビートルズの武道館公演を実現させた陰の立役者たち  vol. 42

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警察が知っていたのは来日公演の日時や場所だけじゃなかった

警察が知っていたのは来日公演の日時や場所だけじゃなかった

第4部・第41章

東芝レコードの生みの親にあたる石坂泰三は、正力松太郎と東京帝国大学の同期だった。ともに高等文官試験を受けて官僚になった学生時代からの仲間で、石坂泰三はやがて経済界に転じて東芝の社長から経団連会長になった。

正力もまたテロ事件の警備責任をとらされて罷免された後、民間に下って新聞経営者となって読売グループを率いて“メディア王”として君臨していく。旧制四高(現在の金沢大学)時代に柔道部で鍛えられたこともあって、帝大に進学した1907年に正力は講道館へ入門していた。東京オリンピックの正式種目に柔道が選ばれることにも尽力した正力は、1962年に武道館建立決議案を衆議院に提出し、翌年に武道館が完工されると初代館長に就任した。

したがって東芝レコードの石坂範一郎専務と久野元治会長は、かなり早い段階から石坂泰三からのパイプで正力を通じて読売新聞社に主催を依頼していたと思われる。当然、イベント全体の主導権やテレビの放送に関する権利を渡す前提で動いただろう。実際に日本テレビの独占中継、読売新聞を通してのチケットの販売、スポンサーの確保、ビートルズ関連の雑誌特集などといった、主催者側の事業メリットはすべて、読売グループのものになっている。

一方で日本を代表する大企業の東芝は、読売グループに対して強い力を持つスポンサーであった。そして1960年代に入るとカラーテレビの普及で、その売上は驚異的な伸びを示していた。カラーテレビの製造は弱電部門にとって、大きな柱の事業になったのだ。その頃には重電部門でも水力発電と火力発電の比率が逆転し、日本の電源構成が1963年から「火主水従」になった。それによって東芝は火力発電の事業を盤石なものとしていった。さらには次世代エネルギーとして導入され始めた原子力発電でも、立ち上がりこそ遅れたものの、日立と並ぶ最大手メーカーの地位を目指した。東芝は原子力発電の国産化を目標に、旧三井財閥系の企業と組んでいた。

正力は1956年に初代の原子力委員会の委員長に就いて以来、原発推進のために読売グループで「原子力の平和利用キャンペーン」を展開した。アメリカから輸入した原電東海発電所の原子炉で、初めて発電に成功したのは1965年11月1日のことだ。日本の原子力発電はその日から急速に現実味を帯び、国を挙げての原発立国へとなだれ込んでいくことになる。正力は10年目にして早くも原子力発電を現実のものにした。

このように石坂泰三および東芝グループと、正力松太郎および読売グループは多面的に結びついていた。こうした結びつきは大型イベントの開催において、強力なネットワークとなって推進力を生み出す。ビートルズの来日がもたらす影響や経済効果、文化交流における効用を誰がどのように石坂泰三や正力に話したのか、そうした記録は残っていない。

しかしどこかで何がしかの力が石坂泰三によって働き、そこから阿吽の呼吸で正力と警察官僚が動いた可能性は十分に考えられる。それが万が一の事故や右翼のテロを防ぐという理由で、警視庁が主催者を指導する形でビートルズの過剰ともいえる警備になったことにもつながるのではないか。

しかもそのタイミングで11月から佐藤栄作による内閣が誕生し、池田内閣の閣僚と政策をそのまま引き継いでいた。来日が決まったビートルズに対して、日本政府が国賓と同等、いや、それ以上に特別な警備で厳戒体制を敷いたのは、そうした流れからみていくと腑に落ちる話なのだ。

警視庁警備課から協同企画に「本庁の警備課までご足労願いたい」という電話が入ってきたのは、まだ来日公演を発表する前の4月12日のことだった。場内警備の担当者として桜田門の警視庁に出向いた協同企画の上条恒義は、「どうして来日を知っているのだろう?」と訝しんだという。しかしこの段階で警察はすでにイギリスでの情報をチェック済みで、ビートルズの来日が確定したことも掴んでいた。

「警察が知っていたのは来日公演の日時や場所だけじゃないんです。ビートルズがどういうグループで、日本にファンクラブがいくつあって、そのクラブの責任者の名前から経済状態がどうなってるかまで全部調べて知っていました。イギリスに駐在している警視庁の役人まで動員して情報を集めたというから、僕は日本の警察と言うのは本当にすごいと、つくづく感心しました」
(野地 秩嘉著「ビートルズを呼んだ男―伝説の呼び屋・永島達司の生涯 」幻冬舎文庫)

ビートルズ来日公演の現場で警備の指揮を執ったのは、本庁の警備課長だった山田秀雄である。山田はこの時34歳、東大法学部を出て警察に進んだキャリア官僚だ。牛込神楽坂警察署長や警視庁第一方面監察官を経て、34歳で警視庁警務部刑事課長になっていた。

「私は永島さんのところが大した規模じゃないことが心配だった。小さな会社が責任を負えるはずもないから、協同企画には厳しく応対しなきゃいかんと思った。ビートルズの公演なんてものは民間の営利事業なんだから、本来は主催者の責任でやるものです」
(同上)

山田が語ったようにコンサートの警備は主催者の問題であって、大物だからといって警察が介入することではない。だがビートルズの場合、特例のケースとされていたことがわかる。山田は「日本では絶対に騒ぎを起こさせるな」との指示が、警察の上層部から降りてきたと語っていた。

だから所轄の麹町警察署ではなく、エリートコースにいた本庁のキャリア官僚の山田が、現場の指揮を執ることになったのである。ビートルズに関する情報を収集した山田は公演当日までに、20数回もの警備会議を重ねて警備計画を作った。武道館のアリーナには観客の入場を許さず、警備にあたる警察官だけがビートルズの周囲を固めることにした。何人たりとも舞台に近寄らせない、それが山田の基本戦略だった。

羽田空港にビートルズの一行が到着する6月28日から29日にかけて、警察は空港付近で一斉検問を実施している。正当な理由のないものの立ち入りをすべて禁じて、高速道路も完全に閉鎖されることになった。度重なる事前の会議に出席した者の中からは、「たかが不良の音楽会にどうしてここまで」と疑問を感じる声も上がったという。

それに対して山田は国家の上層部からの指示を守るのが、官吏としての務めであるとはっきりと訓示した。

山田はその後もエリートコースを進み、1985年には警察官僚のトップとなる警察庁長官に就任している。

→次回は3月23日更新予定

文 / 佐藤剛
最上部の写真:提供 / 毎日新聞社

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。 著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『歌えば何かが変わる:歌謡の昭和史』(篠木雅博との共著・徳間書店)。

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