ビートルズの武道館公演を実現させた陰の立役者たち  vol. 43

Other

最後に役に立った女王陛下のMBE勲章

最後に役に立った女王陛下のMBE勲章

第4部・第42章

実際にビートルズの公演が発表されたことで、マスコミが騒ぐと同時に保守世論から反対論が吹き出した。大日本愛国党を率いる右翼の赤尾敏は数寄屋橋で、「Beatles Go Home」の横断幕を掲げて街頭演説を行った。政治評論家の細川隆元はTBSテレビの『時事放談』のなかで、経済評論家の小汀利得を相手に、「乞食芸人に武道館を使用させるな!」と放言し、マスコミがその騒ぎを拡散させていった。

そこに政府までが口を挟んできた格好になったのは、5月22日に放送された『時事放談』で小浜に向かって細川が「ビートルズごときくだらんものを呼ぶとはけしからん」と語ったからだ。首相の佐藤栄作がいつも見ている番組だったので、「武道館で公演するのは考え物だ」と秘書官に漏らしたという話が流れたのだ。以下は佐竹弘造秘書官の発言である。

「総理のお気持ちは、ビートルズそのものが悪いというんじゃないんですよ。ただ最近、日本武道館の運営が多少甘いんじゃないか、もっと本来の目的のために使うように、慎重にやってほしい、ということなんです。武道館は総理がオリンピック担当相当時にできたもので、特別の愛情というか、関心をお持ちなので、よけいに気にかかるんでしょう」
(「サンデー毎日」ペートルズというのは何者だ!)

これは必要以上に影響力を誇示する野心的な政治家、正力松太郎に対して佐藤首相が睨みを効かせるための政治的な牽制だとも言われた。そこに右翼が非公式に、テロを行うとの情報も流れた。そこで正力は形だけでも武道館の使用に関して、「ダメ出し」をしないと反対する勢力の怒りが収まらない状態になった。反対派の気持ちを懐柔する目的で正力は担当者に、武道館以外の会場を探させる指示を出すことにした。そして自分も武道館の使用には反対であるかのように、マスコミを通して振るまったのだが、。それは老獪な政治家ならではの狸芸であったようだ。

「ペートルズというのは何者だ!」というタイトルで、正力が「日本武道館は会場として使わないことにした」と言ったという記事が、「サンデー毎日」に大きく掲載された。それを自らが操ることのできる読売グループのメディアでなく、ライバル新聞社の週刊誌で取材に応じたことには裏があった。「サンデー毎日」の記事の内容を仔細に読んでみれば、実はビートルズのことにはほとんど触れておらず、正力がファンの常軌を逸した騒ぎについて、一方的にまくし立てていたにすぎないことがわかる。

いろんなところがせりあったが、ギャラが高いんで結局読売が引き受けることになったんだ。そりゃいいが、あのペートルなんとかちゅうのは、ありゃなんだね、気違いじゃないか。この間も二十人以上の女の子が社に押しかけてきてわいわい騒いで、帰ろうとせん。そんなもんを武道館に入れるわけにはいかんよ。そもそも武道館はぼくが造ったようなものなんだ。日本古来の武道新興がぼくの念願で、あれができてからずっと会長をつとめている。武道館の理事や副会長は、会場に貸すことを了承したらしいが、ぼくは反対だったんだよ。
(同上)

ギャラが高いので読売が引き受けることになったというのは、事実とはまったく相反している発言である。そのことからもこの記事への信憑性は失われるといっても過言ではない。そして肝心の部分である「ペートルなんとかちゅうのは」についても、前後の脈絡から推測すれば“ペートルなんとか”はビートルズではなく、ビートル・マニアのことだとわかる。

しかし「サンデー毎日」はタイトルで、「ペートルズというのは何者だ!」と大きく打ち出した。あたかも正力が言った“ペートルなんとか”が、ビートルズであるかのように書いていた。

しかしその記事には正力の本音らしい発言が、はからずも述べられていた。

そりゃ宣伝にはなるし、読者を増やすためにはいいかもしれんが、武道館の精神に反するものは困るんだ。商売がヘタで損するかもしれんが、読売の正力という私情は別として、武道館会長としての筋を通したいんだよ。だから他の場所を探せといってある。
(同上)

テレビを通してビートルズを貶し続けた細川と小汀の二人は、ビートルズ批判の以前にも、日本中にエレキブームが巻き起こった1965年から、若者たちが夢中になる音楽に口出しをしていた。その中で最も話題となって、週刊誌などマスコミが取り上げたのは1965年11月29日、東京12チャンネルでオンエアされた討論番組『意義あり』だ。

この日のテーマは「エレキ・モンキー・ろくでなし」というもので、番組の中で小汀は一貫してエレキ批判をしていた。しかしそこに評論家らしい論理的な発言はなく、単に自分が生理的に嫌いだということを毒舌として放言しているに過ぎなかった。

5月22日の『時事放談』でも「大体エレキ・ギターだのモンキー・ダンスだのという騒々しいものは、人類の進歩の邪魔だ。(略)大新聞の読売が貴重な外貨とヒマを使って、ビートルズのごときくだらんものを呼ぶとは何ごとであるか。福田大蔵大臣も、あんな連中に対して外貨の許可を与えるとは、見識のなさ過ぎる」という発言をした。

こうした暴論や放言に、当時の大人や老人たちは簡単に影響された。だからマスコミの力を知っている正力は、「とにかく武道館ではやらせないということだけは明言しておくよ」と、いかにも政治家らしい心にもない発言をしたのだ。

しかもメディアとしての責任を持つ必要がない、ライバル新聞が発行している週刊誌の記者に話して掲載させ、大人や老人たちへのガス抜きに利用したのである。

この件については招聘元の永島達司が、ロンドンまでブライアン・エプスタインに会いに行くことになった。ビートルズの武道館使用をめぐる混乱で、国内の反応に苦慮したということにし、問題を解決するためと発表した。しかし、これは最初からビートルズの武道館使用を認めていた正力が、反対論を封ずるためのパフォーマンスとして頼んだことだった。

保守派や右翼の動きなどに対するポーズだったことを、正力が亡くなってだいぶ時間が経ってから、永島は旧知の仲だった湯川れい子によるインタビューで率直に語っている。

「そう、ある日、読売の正力さんに呼ばれてね、大変悪いけど武道館は反対が多いから後楽園にしてくれないかって。そんなこと可能かナ……と思って部屋を出たら、当時の読売の事業部長だった村上さんって人が、社長はああ言っているけど、後楽園は雨が降ったらダメだし、警備もできない、それに切符も、もう武道館って印刷しちゃってるしって。それで悪いけど一応ロンドンに飛んで、断られたといって帰って来てくれないかって(笑)」

熱狂の仕掛け人

湯川れい子著
「熱狂の仕掛け人」

小学館


マスコミは武道館問題を取り上げて騒いでいたが、当事者の永島は頭を悩ませることなく冷静だった。せっかくロンドンまで行くのならばと、永島はまずニューヨークに飛んだ。それは円をドルに換えるためだった。ビートルズに支払うギャラの全額を、日本の銀行ではドルで揃えられなかったのだ。

だからニューヨークのチェース・マンハッタン銀行の本店と支店をまわって、永島は円をドルに替えてひと仕事を済ませて、それからロンドンに向かったのだ。

空港からブライアン・エプスタインとヴィック・ルイスが待っているNEMSのオフィスに直行すると、永島はギャラの全額をキャッシュで前払いした。そのことについてはヴィックがこう語っている。

「驚いた。プロモーターなんて連中は世界中どこへ行っても、詐欺師みたいなのばかりだ。日本の後、フィリピンでのビートルズ公演をプロモートしたラモン・ラモスなんてのは、ほんとにいいかげんな男で、金を払う、払うと言いながら結局、ギャラを踏み倒された。ところがタツは前金でしかも全額キャッシュだろ。いったいどういうやつなんだ、よほどの金持ちで、よほど人がいいやつなんだろうとブライアンと私は噂した」
(野地 秩嘉著「ビートルズを呼んだ男―伝説の呼び屋・永島達司の生涯 」幻冬舎文庫)

ロンドンから帰国した永島は正力を訪ねて、交渉の結果を報告した。

「ビートルズが屋外ではダメだと言っています」「あ、そう」で話は終わり。「あとは正力さんが政治家や右翼を説得。警察庁にも国力を挙げて警備をしてくれるように、と、長官を口説いて約束させたというのですから、大変な力だったわけです」。
(湯川れい子著「熱狂の仕掛け人」小学館)

“武道の殿堂をビートルズごときに使用させるな!”という批判の声に対して、読売新聞は6月9日の社告によって、一応のケリをつけた形になった。そこで発表されたのは武道館からの、こんな声明だった。

「このたび女王から勲章を授けられた英国の国家的音楽使節、ザ・ビートルズが読売新聞社の招きにより、初めて日本で公演することになりました。主催者側は、その世界的な人気と国際親善の視点から日本最高の施設をもち1万人以上を収容、しかも警備、音響効果の面からも万全を期せられる会場を物色していましたが、これらの条件を具象しているところは日本武道館以外には無いと判断して、使用許可を打診してきました。
しかし武道館側としては、武道の殿堂であり、青少年の心身育成の道場でもあるので再三おことわりしましたが、主催側はもとより、英国側からも重ねて強い要請がありましたので、諸々の情勢を検討した結果、その使用を許可することにしました」
―財団法人日本武道館理事長 赤城宗徳―
(読売新聞 1966年6月9日)

冒頭の一節に「このたび女王から勲章を授けられた英国の国家的音楽使節」とあり、最後には「英国側からも重ねて強い要請がありました」と述べられていた。最後の土壇場になって、女王陛下のMBE勲章が役に立ったのである。

→次回は3月27日更新予定

文 / 佐藤剛
最上部の写真:提供 / 毎日新聞社

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。 著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『歌えば何かが変わる:歌謡の昭和史』(篠木雅博との共著・徳間書店)。

vol.42
vol.43
vol.44