ビートルズの武道館公演を実現させた陰の立役者たち  vol. 45

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どうしてブライアン・エプスタインは来日公演を行ったのか

どうしてブライアン・エプスタインは来日公演を行ったのか

第5部・第44章

初日の武道館公演における日本のビートルズ・ファンの反応は、常にコンサートに立ち会ってきたトニー・バーロウにも、思った以上におとなしくみえた。にもかかわらずコンサートの翌日、新聞には一斉に「悲鳴と絶叫でビートルズの演奏が聴こえなかった」という趣旨の報道が出揃った。

それはいったいどうしてだったのか。

そういった発言を残した大人たちは、一体何を聴いていたのだろう。そもそも音楽を聴きに来たのだろうか。マスコミもまた、特別な騒ぎを期待していただけではなかったのか。

トニーはステージ上のビートルズ側から見ていたので、他の国でのコンサートで見られるようなヒステリックな悲鳴がまったく聞こえなかったことだけでなく、マイクのトラブルがあって悩まされたことなどを、自らの回想録に正確に記していた。事実、この晩はマイクのトラブルがあって、メンバーたちはそのことに何より苦しめられていた。

正面に立てられたジョンとポールのマイク・スタンドが途中で低くなってしまったり、くるくると回ってしまった。そのせいで客席に届くボーカルの音が、何度も音量が下がったのだ。ビートルズのメンバーたちは楽器を演奏しながら、それぞれが何度もマイクを引き上たり、留め具を締め直さなければならなかった。そのことに苛立っていたのがジョンで、舞台袖にスタンバイしていたスタッフのマル・エバンスに、「何とかしてくれ」とどなるほどだった。

ビートルズにしてみればそうしたトラブルにみまわれると同時に、自分たちが演奏するステージ前のアリーナに、観客が誰もいないという二重のハンデが重なっていた。目の前には警備の警官ばかりという異様なシチュエーションで、数十メートル離れたスタンドの観客席へ演奏を届けなければならない。だが当時はPAシステムもない時代だったから、観客との間にある空っぽのアリーナ席を越えるのに、気分的に困難を感じても無理はない。

そうしたコンディションや警備の状況を記したうえで、トニー・バーロウはこの日のビートルズに対して、辛口の感想を述べていた。

ステージ後方には、THE BEATLESという文字を縁取った電飾が設置されていたが、これは非常に単純ながらインパクトのある効果的な背景になっていた。しかし、すばらしい舞台装置や武道館が隅々まで音が行き渡る音響環境を誇る会場であったにもかかわらず、演奏の内容はがっかりさせられるものだった。
ぼくは数々のビートルズのコンサートに立ち会ってきていたが、そのなかでも武道館公演の初日は最低のものの一つだった。ボーカルは感情や情熱に欠け、演奏も不注意なミスが多く投げやりだった。
ビートルズのパフォーマンスでこれほど満足のいかないものはほとんどないと言ってもよかった。

トニー・バーロウ著
「ビートルズ!売り出し中」

河出書房新社

ビートルズのメンバー達も武道館コンサートの初日は、それまでのコンサートに比べて極端なくらいに静かだったので、自分たちの演奏がいまひとつだったことがはっきりわかった。最初の公演が終わった直後、メンバーたちは人払いをした楽屋に戻ってきて動揺していたという。ジョージは演奏を振り返って、「今日の『恋をするなら』は、ぼくがこれまでやってきたなかで最低だったよ」と反省の言葉を口にした。それにリンゴが、「いい夜もあれば、悪い夜もあるさ」となぐさめても、冷静にこう言ったのだ。

「もうさ、事実をしっかり見ようよ。最近のツアーでぼくたちの演奏はこんなものなんだよ。こういう意味のないステージでいたずらに自分たちを消耗させてるだけなんだ。レコーディング・スタジオならもっとましなことをいろいろできるのに」
(同上)

ジョージの言葉はメンバーの誰もが気づきたくない心を、すっかり代弁して語っていた。ビートルズのコンサート活動が終了するのは、もう目前にまで来ていたのである。このままファンのために、あるいはお金のために、気持ちの入らないツアーを続けていったら、なんの感情も情熱もなく同じ曲を同じように毎晩こなす、そんなバンドになってしまう。そういう危機意識がすでにメンバー内では共有されていたのだ。

ビートルズがツアーの終焉をいつ決断したのか、明らかにされてはいない。だが強く決定づけたのは日本公演の初日における印象と、その後に起こったフィリピンでの悪夢のようなトラブルだったとも考えられる。

彼らは8月のアメリカツアーを終えると、もう二度とコンサートを行わなくなる。今になって思えば日本公演は、本当に最後のチャンスだったのだ。

この時期にビートルズが日本に来てくれたのは、まさに奇跡的なことだった。ポールが作家の野地秩嘉から出た「日本でコンサートをやろうというのは誰が言い出したんですか」という質問に、こんな証言を残している。

たぶんブライアンだ。その頃のビートルズのスケジュールはブライアンが決めていたから。
こんな会話は覚えているよ。
ブライアンが僕たちに『日本に行く話があるんだけど、どう?行きたい、それとも?』と言いかけた特に、みんなで一斉に『ノー』……。日本が嫌いだったわけじゃない。日本でもアメリカでもどこの国でも、僕らはもうコンサートをやること自体に飽きていたんだ。
(野地秩嘉著「ビートルズを呼んだ男―伝説の呼び屋・永島達司の生涯」幻冬舎文庫)

ビートルズのメンバーがレコーディングによる音楽創作に専念するために、ツアーを止めたがっていることにブライアンは気づいていた。だから最後となるアメリカツアーの前に、日本の文化に関心を持っていたジョンを説得して、何とか来日を実現させたということなのだろうか。

当時のビートルズのギャラは1公演10万ドルほどと想定されたのに、日本だけが3公演で10万ドルと格安の扱いだった。しかもそれがブライアンからの提示だったところにも、来日公演の謎を解く鍵が隠されていると思われる。だがその鍵はいまだに見つかってはいないし、これから先も見つかる可能性は少ない。

金のためではなかったのはわかってきた。「ビートルズを呼んだ男―伝説の呼び屋・永島達司の生涯」には、ヴィック・ルイスが友人の永島達司を「少しでも儲けさせてやりたい」と考えてブライアンに提案したと書かれている。だがそんな友情物語では、どことなく腑に落ちない。

ブライアンは嫌がるメンバーを説得し、永島には通常よりもギャラを下げて来日公演を実現させた。それは日本のファンのために、一度はコンサートを見てほしいと思ったからなのだろうか。それとも誰かと何かを約束していたからなのか。あるいは日本刀の妖しい光に魅入られたせいなのか。

しかし翌年にブライアンが急死してしまったことで、これはもう永遠に解けない謎なのかもしれない。

→次回は4月3日更新予定

文 / 佐藤剛
最上部の写真:撮影 / 長谷部宏 提供 / シンコーミュージック・エンターテイメント

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。 著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『歌えば何かが変わる:歌謡の昭和史』(篠木雅博との共著・徳間書店)。

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