ビートルズの武道館公演を実現させた陰の立役者たち  vol. 47

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ビートルズの音楽に出会って素直に感動した人たち

ビートルズの音楽に出会って素直に感動した人たち

第5部・第46章

大学受験に失敗して浪人中に、福岡から上京してコンサートに行ったのが財津和夫である。東京の大学に行っていた女友達から武道館公演のチケットを譲り受けた財津は、博多から夜行列車で17時間かけて武道館に駆けつけた。

とにかく広い会場に着いて、ほぼ最上段の席で観たビートルズは豆粒大にの大きさにしか見えなかった。そして驚いたのは隣の席にいた同世代の男の子が、デッキシューズにヨットパーカー姿で、「ポール!ジョージ!ジョン!リンゴ!」と、泣きながら叫んでいたことだ。
東京はなんて、すごいんだ。こういう男の子がいるのだ。とまたまた感動が増してしまった。そして、音楽で男に涙を流させるビートルズとは、なんてすごいのだろう、音楽にはこんな力があるのだ、と興奮と感激で、ふたたび夜行列車に乗り込んだのだった。ぼくもバンドをやりたい、と切実に思うようになった。

財津和夫著
「心の旅、永遠に」

河出書房新社

財津がリーダーとなって結成したバンドのチューリップは、やがて地元の福岡で注目されるバンドになり、ミュージックライフを発行する新興楽譜出版社が作ったプロダクション部門の第1号として、1972年に専属契約を結んだ。そして財津和夫の希望通り、ビートルズと同じ東芝レコードから「魔法の黄色い靴」でデビューした。日本におけるビートルズの後継と言われたチューリップのエグゼクティブ・プロデューサーは、草野昌一だった。

ビートルズの関係者でも武道館初日に厳しい評価をしたトニー・バーロウは、その後の公演については高く評価していた。

最初の武道館公演がひどかったという事実は、ジョン、ポール、ジョージとリンゴに相当なショックを与えたようで、4人は残された4回の完売のショーにより全力投球することになった。2日目以降、ステージでもオフ・ステージでも4人は調子を取り戻し、歌と演奏もよくなって、いい精神状態にあった。
(トニー・バーロウ著「ビートルズ!売り出し中」河出書房新社)

その時点でのビートルズに対する音楽的な評価は、現在とは比べものにならないほど低かった。日本においては芸術的な観点などからの言説は、まだ全くといっていいほどなかったのだ。何度も言うように、まともな音楽的評価の対象にされていなかった。

しかし、どこかで理解を超える大きな存在という意味で、ビートルズは日本のカウンターカルチャーやアンダーグラウンド・カルチャーを刺激していた。当時の日本におけるアンダーグラウンド・カルチャーとは、例えばアートの宇野亜喜良や横尾忠則、演劇における寺山修司の天井桟敷、佐藤信の黒テント、唐十郎率いる赤テントの状況劇場、土方巽の暗黒舞踏などだ。彼らは世界の動きに敏感だったから、ビートルズにも鋭く反応した。

ぼくが初めてビートルズを知ったのは日本デザインセンターにいた一九六二年だった。会社の図書館に空輸されてきた外国雑誌のグラビア/ページに〝BEATLES〟と名乗るらしい四人のオカッパ頭の若者がリバプールの煉瓦造りの長屋を背景に自信なさげに笑っているモノクロームのように暗いカラー写真が載っていた。
ぼくは彼らの表情の中に、男と女、支配者と労働者階級、楽観主義と悲観主義、自身と不安、優等生と不良、天使と悪魔、天才と白痴、平和と暴力、等々の様々な矛盾を発見したが、彼らの背後に感じるオーラにはカリスマ特有の霊力があるように思えた。〝BEATLES〟――この語が何を意味しているのかぼくは知らなかった。社内の若い流行に敏感なデザイナー数人に〝BEATLES〟の意味について訊いても、答えることのできる者は一人もいなかった。しかしこの四人から受けるルックスの不思議なハーモニーによってぼくは完全に彼等の虜になってしまった。

横尾忠則著
「横尾忠則自伝 「私」という物語一九六〇-一九八四」

文藝春秋

ビートルズ公演から数カ月後にレコード・デビューが決まり、上京するためにビートルズのマネをした舞台衣装を着て、京都駅でファンの人たちに見送られたタイガースの沢田研二が、その辺のニュアンスを上手く伝えている。

1966年、ビートルズの来日公演を東京・日本武道館へ見に行きました。タイガースの前身「ファニーズ」のファンクラブの人が「絶対見た方がいいよ」とチケットをくれたんです。
もう、びっくりしましたよ。周りの女の子の歓声がすごくて音が聞こえないんだから。うるさいから耳をふさぐとさらに音が聞こえない。何なの、これ。なんでこうなれるのっていう感じ。ほとんど「ポール!」「ジョン!」という声ばっかりだったから、僕は「ジョージ!」って叫びましたけどね。
1曲目の「ロック・アンド・ロール・ミュージック」はテンポが遅い。レコードよりずっと遅いけどかっこよかった。ものすごいものを見たという感じ。こんなものにはなれないとしか思えなかった。
「派手にパフォーマンスの裏側は…沢田研二インタビュー」朝日新聞デジタル

ビートルズに同時代的な精神を持っていない大人たちや、異常な現象にだけ関心を寄せていた人に音楽が届くはずはない。沢田研二はこのとき“こんなものにはなれないとしか思えなかった”と感じながらも、「でもビートルズだってデビュー当初、専門家や同業者はだれも成功するとは思っていなかった。だから、僕らもまったく可能性がないわけじゃない」と考えたという。熱狂の中にいながらも、どこかは冷静に見ていたのである。

ビートルズを現象ではなく音楽としてとらえて、コンサートを観た後にまっとうなコメントを表明していたのは作家の遠藤周作と、音楽家の中村八大の二人だった。

遠藤周作はファンの心情を理解していた。

「私はビートルズは昔の宗教的祭儀の変型だと思う。現在でも黒人の祭りではおどりと音楽がクライマックスになると、おどる者も見るものも一種のエクスタシーとヒステリー状態にいる。ビートルズの音楽にはそれに似たものを少年少女たちにきっと与えているにちがいない。しかし私は世間がなぜこれら少年少女たちを批難するのかわからない。……高校野球が終って選手たちが泣けば大人は感動するが、ビートルズが終って少女たちが泣けばおかしいと言う。少しもおかしくはない。原理は同じだ。いいじゃないか、17歳や18歳ぐらいならこれくらい楽しんだって悪くはない」
(「週刊朝日」1966年7月15日号)

この作家にはビートルズの音楽にある根本が何の違和感もなく、素直に受け止められていることがわかる。図らずもビートルズの音楽と観客たちの間には、お互いにコミュニケーションが成り立っていること、それが実は黒人音楽とも根底でつながっているということを押さえた発言だった。

ビートルズよりも半年前に全米チャート1位の「SUKIYAKI(上を向いて歩こう)」を作ったプロデューサー、中村八大のコメントでは作品の音楽的な評価が高いだけでなく、彼らの音楽が本物であることも語られている。新聞記者に電話で語った素直な言葉は、観たすぐ後に語ったものでなんの飾りもない。

切符が手に入ったので、あまり気がすすまないままに公演にでかけた。でも公演をきいて感動した。本当のものが確かにある。それでいまビートルズの音楽を分析しているところですが、作品は相当すごい。歌も常識とかなり違っている。音楽も、ポピュラーとはいえ、教会音楽、それに長いヨーロッパ音楽の伝統が生かされ、非常に高度だと感じた。 とくに最近の音楽は、誰にでもやれるというものではない。あの音楽は、楽しく陽気なのとはまったく逆のもの。深刻で本質的なものをもっている。言葉がわからないのに、あれほど心をとらえるものは、いまいったような面があるからではないかしら。公演にいくまでレコードをきき、歌もヘタ、音程もよくないと思っていたが、その弱点をおおう大事なものを発見した。

「ビートルズ・レポート―東京を狂乱させた5日間(話の特集 完全復刻版)」
WAVE出版


この発言がいかに的を射たものであったかについて、これを初めて読んだ時からもう数え切れないほど読み直しているが、そのたびにいつも軽い驚きと希望を感じる。音楽的な評価が定まっていなかった当時の日本で、音楽ではなく“ビートルズ現象”だけが取り沙汰されていた時代にあって、騒然とした空気なかで周囲の浮足立った騒ぎとは関係なく、大人の中村八大は冷静に「ビートルズの公演をきいて感動した」と言っていたのだ。

少年少女たちと同じようにビートルズの音楽は、ほんものの音楽家には届いていたのである。それを受け止めることが出来た中村八大は、あらためて楽譜に書けない音楽の素晴らしさについて、ビートルズやブラジル音楽から学ぶことになる。

→次回は4月10日更新予定

文 / 佐藤剛
最上部の写真:撮影 / 長谷部宏 提供 / シンコーミュージック・エンターテイメント

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。 著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『歌えば何かが変わる:歌謡の昭和史』(篠木雅博との共著・徳間書店)。

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