ビートルズの武道館公演を実現させた陰の立役者たち  vol. 48

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日本で最初にビートルズの部屋を訪れた人物

日本で最初にビートルズの部屋を訪れた人物

第5部・第47章

東芝レコードの専務だった石坂範一郎は、ビートルズ来日公演が成功に終わった後になっても、その一切を語らないまま事実と真実をあの世にまで持っていった。ふだんから口数が少なく、目立つことを嫌った性格だったとはいえ、その徹底ぶりには驚かされる。それは範一郎を支えていた久野元治会長もまた同じだった。

二人に共通するのは明治生まれの教養人で、国際人でもあったということだ。それは石坂泰三とも実は共通していた。二人は周到に準備してきた計画を東芝の会長である石坂泰三に認めてもらい、そのうえで誰にも邪魔されず、信頼のおける実行者である協同企画の永島達司に受け渡した。そこまでくれば後は最後まで無事に、日本公演を完遂させるだけだった。そして来日してくれたビートルズやマネージャーのブライアン・エプスタインに、日本という国を好意的に印象付けられれば、当初の目的は完全に達成出来たことになる。

来日に関する狂想曲を演じたマスコミが早い段階で、東芝レコードが主体ではなくなったと判断し、来日に興味を失ったのだろうと信じ込んだのは好都合だった。マスコミに煩わされることなく、いつでも石坂範一郎はノーマークで自由に行動できることになった。来日の直前から来日中もビートルズのために役立つことはないか、それを考えながら最後まで手を尽くしたのではないだろうか。

東京オリンピックに合わせて2年前に開業した国際的な東京ヒルトンホテルを、ビートルズの宿泊先に決めたのも石坂範一郎だったと考えられる。地理的に日本武道館から近いだけでなく、東芝レコードからも歩いて2分の至近距離にあった。

ビートルズの宿泊先にヒルトンホテルが選ばれたのは、石坂泰三がつくった東芝レコードの最大のスターである彼らを、国賓級の丁重なあつかいでもてなす必要があったからだ。もちろんホテル側も万全の体制で迎え入れて、特別のサービスで歓迎した。

広報担当のトニー・バーロウによれば、警備班に付き添われたルームサービスがひっきりなしにプレジデンシャル・スイートに出入りして、果物やよく冷えたライム入りのウォーター、いろいろな軽食やアルコールを含む飲みものが提供されたという。ヒルトンホテルのことを、「ぼくたちが宿泊したうちでも最高のホテルだった」と、著書の回想録にも記していた。

ところでヒルトンホテルの経営者は、東急グループの実質的な創業者だった五島慶太の長男で、石坂泰三を敬愛していた東急グループの2代目である五島昇だった。ここもまた石坂泰三の人脈である。東大時代の同級生だった河合良成(小松製作所会長)や正力松太郎などを高く評価していた石坂泰三だが、その次の世代について言えば河合良一(小松製作所会長)や正力享(読売新聞社主)よりも、五島昇との方がはるかに親しい関係にあった。

1940年に東京帝国大学経済学部を卒業した五島昇は、東京芝浦電気(東芝)に勤務して終戦を迎えた。その後に父の経営する東京急行電鉄に入社し、1954年から30代の若さで社長に就任して東急グループの総帥となった。

「石坂泰三語録 「無事是貴人」の人生哲学」(梶原一明著)には、五島慶太について石坂泰三が書いた文章が紹介されている。

「五島さんの偉いところは、一方で強盗と言われるほどの非情をあえて貫きながら、一方では仏にも近い人情をあちこちに振りまいたことである。仏にも近いというと、ちと褒めすぎになるのだが、とにかく、世評の如何にかかわらず、彼には彼らしい人情の発露があって、いろいろの方面でも、独往邁進ぶりを見せた。
五島さんの傲岸不屈は、生まれつきのものだったかもしれない。私は大学以来久しく彼と知りあってきたものであるが、彼の晩年の労苦は、彼の官界生活十年を反発せしめ、彼の官界生活十年の反発は、彼の私鉄経営三十年生いよいよ頑張らしめたようである。人が何と言おうと、おれはおれだけのことをするという、このときの自信と実力の蓄積が、ついに後年の超人的五島を形成するにいたったものだろう。
いずれにしろ、人間は人からとやかく言われることをいちいち気にかけていては、何ごともよくなし得ないものだ。笑わば笑え、謗らば謗れ、こちらはこちらの道を行くのだ、といった意気込みは絶対にたいせつなのである。大なり、小なり、少なくとも四十を越えたら、これだけの肚と力を持つようにならなくちゃいけない」
(梶原一明著「石坂泰三語録 「無事是貴人」の人生哲学」PHP研究所)

梶原一明著
「石坂泰三語録 「無事是貴人」の人生哲学」

PHP研究所

五島慶太という個性的な経済人の描写を通して、石坂泰三という人物の人となりまでが、そこはかとなく浮かび上がってくる文章だ。では五島昇は石坂泰三をどう見ていたのか。

――かつて石坂さんは「昇はオレが育ててるんだ」という力強い発言をされたそうですが……。
五島 それは石坂さんに東急の相談役になってもらった時だと思う。親父が死んだのは三十四年の八月十四日、石坂さんの相談役就任が十一月だからね。
――五島さんにとって石坂さんは“金屏風だ”とよく言っておられましたね。
五島 石坂さんと小林中さん(元アラビア石油会長、故人)、それに水野成夫さん(元サンケイ新聞社長、故人)が金屏風だったが、あの金屏風は時々うしろからゲンコツを出して、僕の頭をコツンとやった(笑)。「おまえは王道を歩くのか覇道を歩くのか」と、ときどきやられました。
――石坂さんは覇道を歩かれなかった人ですね。
五島 そう絶対に覇道をゆかず、正面切って歩いてきた人だからね。なんか、財界の終身の先生が亡くなったような気がする(笑)。
(同上)

ところで1966年6月29日、ビートルズが泊まった東京ヒルトンホテルの10階にあるプレジデンシャル・スイートを、最初に訪れた来客はいったい誰だったのだろうか。

初めて日本公演に行ったとき、ビートルズのメンバーたちが一番驚いたことについて、ポール・マッカートニーが作家の野地秩嘉に対してこのように語っていた。

日本に行った僕らが一番驚いたことって何だと思う。四人とも同じことに驚いたんだ。ヒルトンホテルに着いた日のことだ。レコード会社の偉い人が僕らを訪ねてくるというから、ジョンもジョージもリンゴもブライアンもソファに腰かけて待っていた。その時にジャーナリストか秘書かわからないけれど、日本の若い女性も僕らの前に座ってたんだ。そして、偉い人が入ってきた。老人で男性だよ。
心底驚いたのはその時だった。老人の男性が部屋に入ってくるなり、女の子たちは椅子から飛び上がって『さあ、こちらにどうぞ』と言ったきり、座ろうとしない。老人もまたそれが当たり前のような顔をして、腰を下ろした。男尊女卑というのかな?
あれを見た時が一番驚いた。日本で僕らが話をしていたのは、女性の地位はいったいどうなっているのかってことだったんだ。

野地秩嘉著
「ビートルズを呼んだ男―伝説の呼び屋・永島達司の生涯」

幻冬舎文庫


ここでビートルズのメンバーやブライアンが会った、「レコード会社の偉い人」で老人の男性とはいったい誰だったのか。石坂範一郎は偉い人ではあってもダンディな紳士で、老人という形容は似合わない。それにビートルズの一行にとって、石坂範一郎は永島達司と同様に、最初から身内の一人だと思われていたことがわかった。

そうした事実関係を確認していくうちに、その老人は来日公演を陰で支えていた久野会長だったのだろうという結論に達した。ビートルズを日本に招いた主体である東芝レコードのトップが、真っ先に表敬訪問に訪れるのは当然のことである。

だが、ここまで原稿を書いてみて、ぼくはもうひとつの可能性も捨てきれない思いになってきた。読売グループの正力松太郎や東急グループの五島昇を動かしたのが石坂泰三しか考えられないのだから、話の流れからすれば、ここで石坂範一郎や久野会長の主君として登場して来ても、なんら不思議ではない。

どこの誰が見ても、貫禄十分の偉い老人は、日本を代表する大人物であった。もちろんこれは空想に過ぎないが、それでも「老人の男性が部屋に入ってくるなり、女の子たちは椅子から飛び上がって」というポールの言葉を読むたびに、ぼくは圧倒的な存在感とオーラを放つ老人、石坂泰三の姿を想像してしまうのである。

→次回は4月13日更新予定

文 / 佐藤剛
最上部の写真:撮影 / 長谷部宏 提供 / シンコーミュージック・エンターテイメント

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。 著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『歌えば何かが変わる:歌謡の昭和史』(篠木雅博との共著・徳間書店)。

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