ビートルズの武道館公演を実現させた陰の立役者たち  vol. 49

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「すき焼き」を一緒に食べた加山雄三

「すき焼き」を一緒に食べた加山雄三

第5部・第48章

ビートルズの来日期間中、石坂範一郎は彼らの専用フロアになっていた東京ヒルトンホテルの10階、プレジデンシャル・スイートに毎日のように通っていたようだ。それでなくとも溜池にあった東芝レコード本社は、東京ヒルトンホテルから徒歩で2分の至近距離だった。したがって必要とあれば行き来は常に可能な状態であった。

ビートルズが日本に到着した6月29日の午前中は東芝レコードの要人のほかに、もう一組の訪問者がいたことが宮永正隆の著した「ビートルズ来日学」に書いてある。それは紳士服の銀座山形屋(現・テーラー山形屋)の宮川健二、ポール・マッカートニーのスーツを仕立てた職人とその助手だった。

明治40年創業の「銀座山形屋」は洗練されたセンスと高い実用性で、来日した外国人の間でもよく知られる高級紳士服の老舗である。来日するビートルズのスーツを仕立てるという、思いがけない急な仕事の依頼があったのは6月28日のことだった。カナダ育ちで英語が話せる宮川は、その日は休みだったが店から電話で指示を受けて、翌日の午前中に東京ヒルトンホテルに出掛けた。

翌日の朝10時半に技術者を二人連れて東京ヒルトンに行ったんですが、びっくりしました。なんちゅうんですかね、外国の大統領が来たようなすごい警備なんです。来日した有名人の受注でホテルに出張することは今までもありましたけど、こんなに警備が凄いケースはなかったんで「何なんだ、今日の客は」と思いました。今まで乗ったことがない裏のエレベーターで上がった記憶があります。
〈略〉
マネージャーに挨拶をして、4人に“Glad to meet you all(君たちに会えて嬉しい)”と挨拶しました。カナダは以前は英領でしたから、そんなアクセントで話す人は日本で少なかったんでしょう、彼らは一瞬驚いて顔を見合わせていました。私は私で「こんな若い子がうちの服を誂えるのか」と驚きました。

宮永正隆著
「ビートルズ来日学」

DU BOOKS

遅い朝食をとっていたメンバー4人と会った宮川は、洋服の注文について話をしていくなかで、「納期3日で4人分仕立ててもらえないか」という申し出に驚かされる。通常は3週間で仕立てるのだから無理もない。そこで最初から積極的に話をしてきたポールのスーツだけならばと、特別に超特急で仕上げることを引き受けたという。

ポールは宮川の提案に注文をつけることなく、「貴方にすべてお任せします」と仕上がりを一任した。そのときの写真が「ビートルズ来日学」の367ページに掲載されている。そこには宮川ともうひとりの技術者がポールを立たせて、採寸している姿が写っている。そして奥の大きな鏡には様子を見守っているスーツ姿の男性が、後ろ姿で写り込んでいた。それがどうやら石坂範一郎のようなのである。

「ビートルズ来日学」のなかで宮永は誰が山形屋に注文を出して、宮川の来訪をセッティングしたのかについて仮説を述べている。だが写真を見る限りにおいて、ぼくは石坂範一郎もしくは久野元治会長のどちらかがセッティングしたのだと思った。なぜならば前日に入ったであろうと思われる急な連絡で、しかも通常は3週間かかる仕事を、わずか4日で仕上げてほしいという無理な注文にもかかわらず、老舗がきちんと対応したことからして、大切な顧客からの依頼だったに違いないと考えたのだ。

そこでぼくはこの話を石坂範一郎の長男である石坂敬一さんに、問い合わせてみることにした。石坂さんにはこの連載を始めるにあたって、最初の下書きの段階で読んでいただいていたので、電話で事情を説明して「お父上が山形屋でスーツを誂えていませんでしたか?」と尋ねると、即座に「久野会長です」という返事が戻ってきた。

ビートルズが夏向きのスーツを誂えたいと希望している連絡をもらって、石坂範一郎はすぐに久野会長に相談した上で、山形屋に話をつけて英語の話せる宮川を担当として確保したに違いない。そうした責任上、当日も注文や採寸の場に立ち会っていたのではないか。だから写真にも写り込んだのだろう。

その日はヒルトンホテルの「紅真珠の間」で、予定よりも少し遅れて午後3時20分から、400人を優に超える記者とカメラマンによる合同記者会見が始まった。1時間を超える記者会見が終わった後、ビートルズの担当ディレクターだった高嶋弘之は加山雄三とともにヒルトンホテルに行き、10階で石坂範一郎と合流したと考えられる。

当時の東京ヒルトンホテルのハウスキーピング・チームのリーダー、光安マサ枝のインタヴューが「ビートルズ来日学」に掲載されている。そこでは加山雄三がやって来た時の話が、こんなふうに語られている。

遅番の子が一人だけだったとき、加山雄三さんがみえたこともありました。詰所は隠し部屋みたいになっているのにトントンってノックしていらして、そこからプレに内線電話で「今から行く」って伝えてプレに向かわれたそうです。私が次の日出勤したら「光安さん、昨日加山雄三さんがね、光安さんのこの席にね、座って電話したんですよ!」って興奮してました。
(同上)

加山雄三がビートルズと会食することになったのもまた、エグゼクティブ・プロデューサーとして、石坂範一郎が東芝レコードの発展につながるかもしれないと考えて、直前になって実行したプランのひとつだったと思われる。2007年に出版された加山雄三の自伝風な回想録「わが人生湘南讃歌」(神奈川新聞社)に、「ビートルズと“会食”」という項がある。そこに出会いのきっかけがこのように書いてあった。

「ビートルズに会ってみませんか」
ある日、東芝レコードの人が誘いの言葉を掛けてきた。
「えっ、会えるの?」
「はい」
どうしようかな、と思う程度だったので、祖母に相談した。
(加山雄三著「わが人生 湘南讃歌」神奈川新聞社)

来日のわずか数日前になって、「ビートルズに会ってみませんか」と加山雄三に声をかけた人物がいたのだ。そして「会えるの?」という問いに対して、あっさり「はい」と答えていた。そして祖母が「会いな!こんなチャンスは二度とないよ。あんたのためにどれだけなるのか、計り知れないよ」と答えてくれたことで、ビートルズとの会食が実現することになる。

想像を絶する厳重な警戒のなかで、急にそんな話を持ちだして実現できるのは、石坂範一郎のほかにはいないだろう。加山雄三はずいぶん時間が経過してからだが、テレビ番組で「東芝の重役の人」と発言していた。

ビートルズの一行は10階のフロアを全部借りていたので、加山雄三は東芝レコードの高嶋と二人で、一般用のエレベーターで最上の9階まで上がった。そしていったん降りてから、従業員用の階段を10階に上がり、通行証もないまま顔パスで入っていったと加山雄三は書いている。

ここにも警察官がずらっと並んでいたが、僕が「あっ、ごくろうさまです」と敬礼したら、警察官全員が「あ、どうもごくろうさまです」と答礼をしてくれて、通れたのだ。すべての部屋の扉は開けっ放しだった。音のする方へ行ったら、ビートルズのメンバー全員がそろっていた。
(同上)

幼い頃から英会話もできた加山雄三はビートルズのメンバーたちよりも年上だったので、相手が有名人だといっても気後れすることなく打ち解けることができた。そしてしばらくは加山雄三の持参した、LPレコード『ハワイの休日』をポータブル電蓄で聴いたりしたという。

「恥ずかしい」という僕の抵抗も、四人には通用せず、その場で「ハワイの休日」が流された。彼らは、楽しそうに僕の曲に合わせてハミングをしていた。僕は笑いながら、見ているしかなかった。
二時間ぐらいの滞在だったけど、お互いリラックスして過ごせたと思う。
(同上)

曲を作ったのが加山雄三本人だと知って、ビートルズのメンバーたちも好意的になったようだ。そんな雰囲気の中で誰かが「おなかが減ったな」と言ったので、何が食べたいかと聞いてみると、「スキヤキ!日本はスキヤキだろう?」という返事が戻ってきた。その言葉からは坂本九のヒット曲の「SUKIYAKI」が、瞬間的にかいま見えてくる。

こうして加山雄三はビートルズと一緒に、自然な流れですき焼きを食べることになったのだ。出世作であり、代名詞ともなっていた映画「若大将シリーズ」で、すき焼き屋「田能久」の息子役を演じていたのだから、これもまた不思議なめぐり合わせである。とはいえ石坂範一郎が思い描いていたシナリオ通りの展開だったのかもしれない。

ビートルズのメンバーたちはルームサービスで頼んだすき焼きを前にして、食べ方が分からなくて戸惑っていたので、「器に卵を落としてかき混ぜてから、肉や野菜をディップして食べる」のだと加山雄三が教えた。しかし箸の使い方を教えても誰もその通りに出来ず、箸一本で肉を突き刺してほおばって食べていたという。

そのときにジョンはいきなり椅子をどかして、「日本人はこうして食事をするんだろう」というと床に正座して食べ始めた。ところが椅子用のテーブルなので高さがまったく合わず、ジョンはあごをテーブルに乗せるような格好になってしまった。

加山雄三が「その方がむしろ行儀が悪いんだ」と言ったが、「いま日本人の気持ちを味わっているんだからいいんだよ。日本が好きなんだから」と、ジョンは笑いながらそのまま食べていたという。(注)

石坂範一郎と高島はこの時、別室でブライアンと一緒にビジネスミーティングを行っていた。

(注)参考文献 加山雄三著「若大将の履歴書」日本経済新聞社

→次回は4月17日更新予定

文 / 佐藤剛
最上部の写真:撮影 / 長谷部宏 提供 / シンコーミュージック・エンターテイメント

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。 著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『歌えば何かが変わる:歌謡の昭和史』(篠木雅博との共著・徳間書店)。

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