ビートルズの武道館公演を実現させた陰の立役者たち  vol. 51

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内密の「ミュージック・ライフ」の取材にも立ち会っていた石坂範一郎

内密の「ミュージック・ライフ」の取材にも立ち会っていた石坂範一郎

第5部・第50章

7月2日の昼、「ミュージック・ライフ」編集長の星加ルミ子が日本のジャーナリストではただ一人、ビートルズ側から取材を許可されて部屋に招かれた。そして約1時間ほど部屋での滞在を許されて取材を行った。これは東芝レコードの仕切りではなく、ビートルズの広報担当だったトニー・バーロウのはからいによるものだった。

前年にロンドンでの独占取材で知り合って以来、トニーと星加および新興楽譜出版社の草野昌一は、常に連絡を取り合う関係になっていた。特に草野はロンドンに行くたびにトニーとの接触を欠かさず、ネゴシエーションを重ねてきた。だから来日した当日の記者会見から「ミュージック・ライフ」と星加は特別待遇で、取材の一切を取り仕切るトニーの手配で、ビートルズの一行が占有していた東京ヒルトンホテル10階のワンフロア下に宿泊していた。

武道館の初日公演の後、星加は草野とトニー、それに新興楽譜出版社と契約していた音楽評論家の湯川れい子は、4人で遅い夕食をホテルで食べている。その日のコンサートが海外に比べて、かなり静かだったことなどを話したという。

取材の日は午後1時にトニーから、「今から10階へ上がってらっしゃい。ルミとアシスタントの2人でどうぞ」と、部屋で待っていた星加に電話が入った。そこにはロンドンにも同行したカメラマンの長谷部宏と、草野昌一もスタンバイしていた。

〈大手の新聞、週刊誌、テレビ・ラジオ局から個別取材の要請が来ているが、初めに言ったとおり、一切応じられないと断っている。しかし、あなたは私の友人だ。友人を招待しても、誰からもクレームはつかないだろう。もちろん、ブライアンも承知している。私は何とかあなたに取材許可を与えたいと、訪日が決まった時から考えていたのだが、私たちの友人を部屋に招待するというのが一番いい方法だと思いついてね。もちろんカメラマンを連れてきてかまわないし、インタビューすることも、四人の様子を書くことも一向にかまわない〉

トニー・バーロウの対応は格別なものだった。星加と長谷部は、すぐさまプールサイドにある10階に上がる専用エレベーターへ乗った。10階のフロアに降りると、トニ・バーロウが迎えに来ていた。そして1002番から1007番までの続き部屋のスペシャル・ルームのドアを開けると、そこにはビートルズのメンバーたちがいた。

この日の取材は非公式だったが、ブライアンは「ここで起きたことを書くのはかまわないからルポルタージュにしたらいい」と助言してくれたという。星加はそこで長谷部にこと細かに写真をとってほしいと頼んだ。あとで写真を見て、細部を思い出して記事を書くためだった。

3歳の息子がいるジョンが、「日本のキッズにいちばん人気があるのは何だ?」と質問してきたので、赤塚不二夫の漫画「おそ松くん」の登場人物、イヤミが取る“シェー”のポーズを教えてあげた。そのポーズをジョンが真似している写真は、のちに大いに有名になった。

その部屋の中には外に出られないビートルズのメンバーたちのために、骨董品や真珠、カメラの業者などが来て、お土産用の品物を広げていた。

ジョンはそこで250万円の蒔絵の引き出し香箱、蒔絵の硯箱と花生け、香り枕など、合計で538万円もの買い物をした。その鑑識眼がいかに優れていたかについては、「羽黒洞(古美術・骨董商)」の経営者だった故木村東介氏が、1972年にジョン・レノン&ヨーコ・オノ夫婦が来店したときの思い出のなかで記している。

最初私はねえ、外国の人に精魂込めて集めたものを安易に渡したくないと思っておったんですがねえ。だんだんと気持ちが変わってきて、こんな心の美しい人にはほんとうにいいものを見せてあげたいと思うようになりましたねえ。この商売を始めて五〇年になりますが、説明の要らなかったお客というのはジョンが初めてでした。
〈略〉
日本の芸術品を単に集めてみたかったというのではなくて、もっともっと彼の音楽を際限なく拡げていくために、日本の芸術をもっと見たかったんだと思いますねえ。単なる鑑賞でもなければコレクトでもない。だから全世界を通じてたいへんな人だったんですねえ。日本人だってわかりゃしないようなものを、ちゃんと知ってた。博物館の人間でもわからないものをですよ、ちゃんと見抜いてた。まあ、たいした鑑識ですよ。
(『宝島1981年2月臨時増刊号 JOHN ONO LENNON』JICC出版局刊)

メンバーたちのために出張販売に来ていた業者たちが引き上げて、おみやげを選び終わったところで、午後のコンサートの出発時間が近づいてきた。その時にビートルズの未来が、さりげなく暗示されていたことに、星加は後になって気づかされることになる。

業者も引き上げて部屋には身内だけとなったので、気を許したのか、めずらしくリンゴまで大きな声をあげた。
「もう金は十分手に入れた。その金を使う場所に連れて行ってくれ!」
メンバーたちは星加の訪問を喜んで、みずから飲み物を持ってくるなど、せっせともてなした。ジョンはみんなのためにスコッチの水割りを作ってグラスを配り、自分には「僕にはまだ朝だから」とオレンジジュースを注ぎ、そしてグラスを高々と掲げた。
「まもなくビートルズは解散しまーす。過去の栄光に乾杯!」
微妙な空気が流れたが、次の瞬間、みな冗談だと思ってどっと笑い声をあげた。一人引きつった顔のブライアンが星加に言った。
「今の話は書かないでくださいね」

9784309272078

淡路和子著
『ビートルズにいちばん近い記者~星加ルミ子のミュージック・ライフ』
河出書房新社


ブライアンはそれまで星加がメンバーたちと話していても口をはさむことはなく、はしゃぐ4人を愛おしむように見守っていた。トニーにしても何を書いてもオーケイだったし、掲載する写真をチェックすることもなかった。逆に「なにをチェックするんだ?」と聞き返すくらい放任だったエプスタインが、わざわざ書かないでくれと言ってきたということは、そのような危機があるのだろうかと、星加は逆に不安を覚えたという。

このとき私の頭をかすめたのは、八月のアメリカ公演が終わったら、本当に解散してしまうのではないか、という思いであった。私などには計り知れない亀裂が入り始めていたのだろうか?それは誰と誰の間に?理由は?
思いをめぐらせても、しょせん私には想像もつかぬことであった。が、一抹の不安はその後もずっと私の心の片隅に沈殿しつづけた。

太陽を追いかけて

星加ルミ子著
『ビートルズ・ロッキュメンタリー 太陽を追いかけて』
TOKYO FM出版


この日の取材が終わった時のスナップ写真が残されていて、トニーの出した回想録「ビートルズ売出し中」の257ページ、「第8章 東京テロル」の冒頭に掲載されている。そこにはトニーが書いた、こんなキャプションが付いていた。

1966年に日本でビートルズが身を隠していた東京ヒルトン・ホテル(のちのキャピタル東急ホテル)のプレジデンシャル・スイート。ブライアン・エプスタイン(左)、ポール、『ミュージック・ライフ』編集長の星加ルミ子、ぼく、リンゴ、そして、プロモーター永島タツの兄。
(トニー・バーロウ著「ビートルズ!売り出し中」河出書房新社)

しかし写真の画面の右側に立っているスーツ姿の紳士は 、プロモーター永島タツの兄ではなく、石坂範一郎その人であった。トニーはそれをプロモーターの永島達司の兄と勘違いしていた。

ビートルズ側の特別な計らいで実現した「ミュージック・ライフ」の取材の場に、石坂範一郎はごく自然に、メンバーやスタッフの一員として溶け込んでいた。そして「身内だけとなった部屋」でビートルズのメンバーや星加たちを、愛おしむように見守っていたのだった。

2年前にビートルズの映画『ビートルズがやって来る!ヤア!ヤア!ヤア』の試写が行われた会場で、「星加さん、日本でも本気になってビートルズを売りましょう」と声をかけた石坂範一郎のひと言から、「ミュージック・ライフ」の独占取材が実現したことを、ぼくはあらためて思い出した。

そこから重要な追い風を吹かせてくれた石坂範一郎が、東京での再会の場に居合わせていたのは、ごく自然な流れだったとも感じた。そのスナップ写真の別ヴァージョンを、ぼくはインターネットの検索で発見することができた。

ビートルズの来日公演に帯同してきた公式カメラマン、ロバート・ウィテカーが公開している写真のなかには、ブライアン・エプスタインと二人で親しそうに談笑している石坂範一郎の写真もあった。そこに流れている親密な空気の感じからすると、二人がわずか3日前に初めて会ったばかりだとはとても考えられなかった。

→次回は4月24日更新予定

文 / 佐藤剛
最上部の写真:撮影 / 長谷部宏 提供 / シンコーミュージック・エンターテイメント

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。 著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『歌えば何かが変わる:歌謡の昭和史』(篠木雅博との共著・徳間書店)。

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