ビートルズの武道館公演を実現させた陰の立役者たち  vol. 54

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ビートルズの来日公演が日本に残してくれた大きな置き土産

ビートルズの来日公演が日本に残してくれた大きな置き土産

第5部・第53章

ビートルズの武道館公演に刺激されて誕生したワイルドワンズは、結成から2ヶ月にもかかわらず東芝レコードのキャピトル・レーベルから11月にデビューした。そこからエポックメイキングな大ヒット曲「想い出の渚」が誕生し、スパイダースの「夕陽が泣いている」とともに、バンドの時代という導火線に火をつけたことになった。

ザ・スパイダースは、ロカビリー・ブームの後期から活躍していた田辺昭知がリーダーで、1960年代前半から活動していたキャリアの長いバンドだった。だが1964年から加入したかまやつひろしを通して、ビートルズに強く感化されてリヴァプール・サウンズを追求するようになっていた。

1965年に発表したオリジナル曲の「フリフリ」(かまやつひろし:作詞・作曲)は、自分たちで作った楽曲を自分たちで演奏して歌ったという点から、グループ・サウンズの起源とされている。もちろん当時のスパイダースが目標としていたのは、はっきりとビートルズだった。1966年の春に彼らは全曲オリジナルのアルバム、『ザ・スパイダース・アルバムNo.1』を制作して日本語のロックの先陣を切った。

しかしシングル盤のヒットが出なかったために、レコード会社の意向でベテランのソングライター、浜口庫之助の「夕陽が泣いている」でヒット曲を狙った。メンバーはあまり気乗りしなかったというが、スパイダースがプロモーションでヨーロッパ・ツアーに出かけていた1966年の秋に発売されると、アーティスト不在のままヒットした。

先行していたブルーコメッツの「青い渚」と「青い瞳」のヒット、ワイルドワンズの「想い出の渚」、スパイダースの「夕陽が泣いている」によって、日本にグループサウンズ(GS)のブームが始まった。そして1967年2月にGSブーム最大のスターとなる京都出身のザ・タイガースがデビューして大きくブレイクし、そこから一大ムーブメントとなっていく。

渡辺プロダクションは同じレーベルで共倒れになったりしないように、タイガースをポリドールからデビューさせた。もちろん東芝と始めていた原盤制作を踏襲した契約で、専属作家制度を守っていたポリドールもこの時期から、外部の音楽出版社との連携に踏み切ることになる。

こうして歌謡曲を作っていたレコード会社の専属作家たちに代わって、若くて才能あるソングライターたちがメジャーに押し上げられて、作詞家や作曲家の勢力図を一新させていくのだ。

またメンバーの一員としてソングライティングや編曲面でバンドを支えていたブルーコメッツの井上忠夫、スパイダースの井上堯之と大野克夫、ワイルドワンズの加瀬邦彦といったミュージシャンたちが、後にソングライターとして活躍し始める。

GSブームが去った後も、タイガースのヴォーカル・沢田研二の人気はますます高まり、日本のスーパースターへと成長していった。モップスの星勝はアレンジャー&プロデューサーとして、井上陽水や小椋佳を手がけて成功を収めている。

タイガース解散後の沢田研二に楽曲を提供しながら、プロデューサーとしての活動を行った加瀬が書き残した著書のタイトルは、「ビートルズのおかげです― ザ・ワイルド・ワンズ風雲録 あの頃の音楽シーンが僕たちのスタイルを生んだ」というものだった。

ビートルズが8月に行った最後のアメリカ・ツアーに、日本から取材を許されて同行したのは新興楽譜出版社が発行する「ミュージック・ライフ」の編集長、星加ルミ子であった。シカゴからニューヨーク、シンシナティ、ロサンゼルス、サンフランシスコと、星加はビートルズ一行としてほぼ身内の扱いで、メンバーやスタッフと一緒の飛行機に乗って旅をした。

アメリカの2誌とイギリスの2誌、そして日本の1誌、記者とカメラマンが取材で会場入りを許されたんですね。その特別なパスを持っていたら、会場だろうとホテルだろうとどこでも取材できるんです。いつでも話しかけてかまわないし。
本当にクルーみたいなもんですよね(笑)。朝ご飯は、みんなそれぞれ起きたら食べられるようにと、別室にビュッフェスタイルで用意してあるんですね。それはメンバーだけじゃなくて、ついてきたクルーの人たちだとか、アメリカの関係者の人たちがみんな食べていいんですよ。それで、私も朝ご飯でおいしいオムレツでもあるかもしれないと、降りていったんですが、そこで2回リンゴ・スターと一緒になりました(笑)。
Music Man Net -LIVING LEGEND シリーズ- スターの概念を打ち破ったビートルズとの日々 元『ミュージック・ライフ』編集長 星加ルミ子

ビートルズのメンバーはこのアメリカ公演を終えたら、もうバンドとしてのコンサートはやらないと決めていた。しかし、そのことが公式に発表されることはなかった。

そして1966年8月29日、サンフランシスコのキャンドルスティック・パークでのラスト・コンサートを最後に、ビートルズはコンサート活動を停止したのである。

その日も押し寄せるファンを阻止するために、バリケードで囲まれたステージで演奏されたのは、「ロックン・ロール・ミュージック」で始まって「アイム・ダウン」で終わるという、日本公演と全く同じセットリストだった。

アメリカ公演に星加を送り出した新興楽譜出版社の草野昌一は、ビートルズの登場によって始まったブリティッシュ・インヴェイジョンと、そこから登場したバンドの音楽的な成長によって、漣健児の名前で行ってきた訳詞の限界を知ることになった。そこでミュージックマンとしてのビジネスに焦点を絞り、1965年頃から音楽出版に関連する国内での原盤制作やプロダクション事業に乗り出していた。

ザ・スパイダースを筆頭にグループ・サウンズやフォーク・ソングの分野で、数多くのヒット曲に関わったことから、草野はエグゼクティブ・プロデューサーとしての道を歩み始める。そして、1966年にマイク真木の「バラが咲いた」とブロードサイド・フォーの「若者たち」がヒットし、日本ビクターのフィリップス・レーベルと組んで輝かしい成功を収めた。

そこから日本の音楽シーンには新しい可能性が生まれて、GSブームに至る新しいページが開かれたと言っていいだろう。

やがて草野はアーティストを育成するプロダクション部門を作り、九州の福岡から武道館公演を観に来ていた財津和夫が率いるチューリップと契約する。そして1972年にビートルズのレコードを発売していた東芝EMIからデビューさせた。

デビュー曲の「魔法の黄色い靴」というタイトルからして、ビートルズの影響が感じられる楽曲だった。しかし音楽性を評価されたものの、すぐにヒットというわけにはいかなかった。

2曲目もまったく売れずにリーダーの財津が、「これでダメなら福岡に帰るつもりでした」と覚悟して曲作りに取り組んだ3枚目のシングルが、オリコンで1位を獲得して時代を代表するバンドになった。いきなり「君を抱いていたい」というフレーズから始まる「心の旅」は、当時としては斬新かつショッキングな出だしだったが、そこにはビートルズの影響がうかがえた。

草野は「心の旅」が大ヒットしたチューリップに続く形で、1974年に同じく福岡出身の甲斐バンド、1978年にはARBを発掘して成功させていく。

さらには1980年代になってもレベッカ、プリンセスプリンセスなど、新しい時代のバンドを世に送り出した。

また1980年代から1990年代にかけてはミュージックマンとして、日本におけるビートルズの楽曲の著作権管理を行った。その関係で1989年には世界初のビートルズ全213曲のバンド・スコア集、「コンプリート・ザ・ビートルズ」を発行している。

→次回は5月4日更新予定

文 / 佐藤剛
最上部の写真:撮影 / 長谷部宏 提供 / シンコーミュージック・エンターテイメント

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。 著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『歌えば何かが変わる:歌謡の昭和史』(篠木雅博との共著・徳間書店)。

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