ビートルズの武道館公演を実現させた陰の立役者たち  vol. 55

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ビートルズによって育まれた自由な精神

ビートルズによって育まれた自由な精神

第5部・第54章

ここでふたたび、ビートルズのフォロワーとして最もふさわしいザ・フォーク・クルセダーズを取り上げて、ビートルズによって日本の若者たちに植え付けられた精神について考えてみたい。彼らはザ・ズートルビ―というグループ名で、「水虫の唄」をアルバムの先行シングルとして発売して1968年にヒットさせたように、パロディ精神とユーモア、若造らしい素朴な反骨精神に特徴があった。

フォークルの北山修がミュージシャンの道を進む大きなきっかけとなったのは、ビートルズの音楽とメンバーたちの言説、あるいは行動から受容したメッセージとの出会いが大きかったという。

1964年の年が明けからまもなくビートルズがデビューした頃、戦後生まれの団塊の世代はちょうど中学生から高校生だった。ラジオからどんどんビートルズの音楽が流れてきたとき、彼らの一部は理屈ではなく身体でその音楽を受けとめて歓喜した。

世の中では急に人口に対する比率が増えて数が多い若者世代に焦点を当てて、飲料品や菓子などの商品が開発され、少年漫画や映画、テレビ番組では新しい感覚の作品が次々になっていた時代だ。

音楽においてもその方向は顕著に表れて、大人向けのクラシックやジャズなどに加えて、ティーンエージャー向けのポップスがアメリカから広まって、そのまま日本でもカヴァーされて流行した。若者たちの間ではピアノや管楽器よりもはるかに手軽なギターが人気を集め、社会全体が求める娯楽も戦後世代に向けて、徐々に転換する時期にあたっていた。

当時について北山修は「若者たちのテーマは、私たちによる、私たちのための、私たちの音楽でした」と言う。戦前までの「あれか、これか」という選択肢から、価値観が多様化して「あれも、これも」が通用する時代は来ていた。

「あれも、これも」という新しい価値観を、私は「焼け跡派」といわれる文化人、作家たちによって学びました。前田武彦さん(1929年生)、野坂昭如さん(1930年生)、五木寛之さん(1931年生)、永六輔さん(1933年生)、寺山修司さん(1935年生)などです。「戦争を知らない子供たち」である私たちとは違い、大戦中に少年期を迎え、戦中、戦後の価値観の変転を自ら体験し目の当たりにしてきた人たちです。

北山修著
「コブのない駱駝――きたやまおさむ「心」の軌跡」

岩波書店


教え子たちに皇国史観を植え付けて、「お国のために命を捧げよ」という絶対のメッセージを叫んでいた教師が、戦後になったとたんに教える内容も態度も180度変わってしまった。教師に限らず、政治家も、マスメディアも、周囲の大人たちも、敗戦を境に態度や主張がコロッと変わって恥じなかった。

そのときに小中学生だった焼け跡派の作家たちは作家という型にはまるのではなく、ラジオやテレビにも出演し、歌を歌ってコンサートも行い、やれることは「あれも、これも」やってもいいんだと実践してみせた。

「誰も信用するな。自分だけを信じろ。いや自分すら信じられないのだから」という価値観を、私たちに伝えてくれたのだと思います。
(同前)

そういう価値観を彼らから学んだ北山修にとって、ビートルズはまさにそれを体現している存在だった。高校生の頃にラジオの雑音の中から浮かび上がってきた音楽は、「お前も、お前のやり方でやってみたらどうだ」と語り掛けているように感じたという。

それ以前のスターだったエルヴィス・プレスリーからは、「才能とチャンスがなければスターになれない、俺とお前たちが違うんだ」という雲の上の存在という印象を受けていたが、それとは全く違っていた。

そういう大スターはいつも孤独で1人だったが、ビートルズは4人全員が歌って演奏する。荒削りでも4人が揃って演奏して歌を歌うだけで、オリジナルでもカヴァーでもとてつもなく魅力的な〈みんなの音楽〉が生まれてくる印象だった。

しかもジョン・レノンだけが曲を作るのでもなければ、ポール・マッカートニーだけが作るわけでもない。レノン=マッカートニーという協同によって歌ができている。さらには作ったジョンとポールだけが歌うのではなく、ジョージ・ハリスンも、リンゴ・スターも歌い、やがて全員が曲を作るようになった。

自らのやり方で自分たちの音楽を作り上げてきた彼らは、正当な音楽教育を受けた人間からすれば、考えられないようなコード進行を平気で取り入れて独特のサウンドを出した。

カヴァー作品さえも自分たちのやり方で、自分たちのものにしてしまう。

誰もが自由に音楽を作っていいんだというメッセージに、観客も歓声やアクションで一緒に参加できるという方法で呼応した。こうしてそれまでにはなかった、〈みんなの音楽〉という感覚が世界中に伝搬していった。

「おまえもおまえのやり方でやってみたらどうだ」というあのメッセージには、私たちの言語・日本語で歌うということも含まれていたと、私は受け止めています。世界中の音楽を自分たちのやり方で、自分たちの歌にしていく。
(同前)

ザ・フォーク・クルセダーズはメロディーが日本的なら歌詞を西洋化し、歌詞が意味なく滑るカタカナならリズムを刺激的にした。さらには深刻な歌謡曲を漫談調で歌う。意味と記号、メッセージのやり方、内容と形式、これらを分離させて組み換えることで合体させた。ソング・ライティングもコンサートもアマチュア時代と同じで、マネージャーも付けずに自分たちのやり方で思ったようにやってみた。

ビートルズの来日公演が終わった翌年、関西ではそれなりに有名になった頃に、レコード会社から浜口庫之助が作った曲でデビューしないかという誘いを受けた。しかし、自分たちのやり方で、自分たちで好きなようにと活動してきたので、その申し出を断っている。

自分たちで作った歌を自分たちで歌う。そこは、私たちにはどうしてもゆずれないところでした。それが私たちが〈みんなの音楽〉から受け取った精神だったからです。(同前)

ビートルズによって育まれた精神があったからこそ、バンド解散の記念に作った自主制作盤『ハレンチ』が生まれ、そのレコードに刻み込まれていた才能やユーモアが、自分の感性を信じて良い作品やアーティストを世に送り出す役目を担っていた目利き耳利きによって、「帰って来たヨッパライ」が発見されて爆発するのが、ビートルズの来日公演の一年半後のことだった。

彼らがビートルズと同じレコード会社になったのも、人と人がつながる不思議な縁によるものだったことは、すでに第1部の10章に述べたとおりである。北山修はテレビの歌番組でスパイダーズと共演した際に、かまやつひろしから「私もフォーク・クルセダーズでデビューしたかった。そしたら自分の歌を歌えたのに」と手を握って言われたことがあるという。

浜口庫之助が作った曲でヒットを出したが、かまやつひろしは当時「世界的に有名なビートルズと勝負しても、俺たちは奇跡を起こして、負けないんじゃないか」と思っていたそうだ。

→次回は5月8日更新予定

文 / 佐藤剛
最上部の写真:撮影 / 長谷部宏 提供 / シンコーミュージック・エンターテイメント

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。 著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『歌えば何かが変わる:歌謡の昭和史』(篠木雅博との共著・徳間書店)。

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