ビートルズの武道館公演を実現させた陰の立役者たち  vol. 56

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ビートルズのおかげで作詞家になれた阿久悠

ビートルズのおかげで作詞家になれた阿久悠

第5部・第55章

グループサウンズ(GS)は1967年から68年にかけて大きなブームとなり、数百ともいわれるバンドが活動したが、それらの多くはビートルズの影響下にあった。しかし手早くヒットを狙った歌が量産されたために、短期間でマンネリ化していった。そして作品の根底を支えていた若さ、心の純粋さ、反抗精神などが薄まり、急速に楽曲がリアリティを失ってしまう。

音楽が好きなだけではバンドを維持できず、デビューしてもすぐに行き詰まるケースが増えて、ブームは短期間で収束に向かった。しかしGSブームが勢いよく爆発していく過程で、若くて才能あるソングライターたちが登場してきた。

音楽家の中村八大と永六輔が1959年に「黒い花びら」で第1回日本レコード大賞に輝いて以来、先頭に立って始めたフリーランスでのソング・ライティングに連なる後継者たちが、ここから一気に台頭したことによって、音楽シーンには歴史的な世代交代が行われた。

その結果、レコード会社と契約を結んで戦前から半世紀にわたって歌づくりを手がけていた作詞家や作曲家は、1969年を境に活躍の場が大きく減少する。

1970年から目覚ましい活躍をし始めた作詞家の阿久悠が、その辺りのことをこう述べている。

僕が作詞家になれたのはビートルズのおかげです。
ビートルズの出現で六〇年代半ばにエレキギターの楽器革命が起こりました。
それまで楽器はプロでなければ扱えなかったのが、エレキブームでギターが普及して誰でも扱えるようになった。
やがてGS(グループサウンズ)の一大旋風が起こると、彼らの曲作りに参加するかたちで、フリーランスの作詞家や作曲家が続々と参入してきました。
(「阿久悠 命の詩」所収「歌謡曲の向こうに昭和という時代が見える」より)

広告代理店・宣弘社のサラリーマンだった阿久悠は、眠る時間を削って二重生活を続けながら、ラジオやテレビの放送台本を書いていた。当時は日本テレビに勤務しているのではないかと思うほど、たくさんのレギュラーを抱える放送作家だった。

エレキバンドのコンテスト番組『世界へ飛び出せ!ニューエレキサウンド』は、1965年に10月にスタートしたが、番組の目玉は優勝チームをビートルズを生んだリバプールでレコーディングさせるというものだった。そして番組のレギュラー出演者だったスパイダースのために、歌詞を書くようになったのが作詞家に転身するきっかけとなる。

阿久悠はビートルズが来日することを知った時から、日本の音楽界にとって特別な日になるだろうと意識した。そして読売新聞の主催ならば、日本テレビでビートルズの特別番組が製作されるだろうとも予想した。

だからその仕事に関われることを期待し、「ぼくにまわって来るに違いない、いや、まわって来てほしいものだ」と思っていたという。そこで1966年5月には宣弘社を退社してフリーの道を選んだ。

ところが阿久悠に仕事はまわって来なかった。そのために特別な日だという重要さだけを認識しながら、やむを得ずビートルズの日本公演は遠目から見ることになった。それでもやはり衝撃は大きかった。

ザ・ビートルズの来日は、少し大仰な言い方をするなら、黒船だった。そのくらいの衝撃を与えた。国家の威信に関わるというものではないが、彼らの来日によって、文化的閉鎖性を自覚し、その自覚によって、一気に自らを開放したことは確かだった。
幕末の黒船は、大砲とエネルギーを見せつけた。第二次世界大戦後の進駐軍は、ジャズと野球と民主主義を持込み、いずれも、信じていた価値観をひっくり返した。
三度目の黒船は、ザ・ビートルズで、わずか五日間、嵐のように訪れ、嵐のように去っていったわけだが、実にさまざまなものを残した。

阿久悠著
「夢を食った男たち」

文春文庫


ビートルズが去っていった後にヒット曲を連発したソングライターたち、作詞家でいえば橋本淳、なかにし礼、山上路夫、安井かずみ、作曲家でいえばすぎやまこういち、鈴木邦彦、筒美京平、井上忠夫、村井邦彦、加瀬邦彦といったフリーの作家たちが輩出された。

ビートルズの来日公演が日本武道館で開かれた時、京都に住む高校生だった北山修は抽選のチケットが当たらなかった。東京まで観に行くことができなかった体験から、地方に住んでいたファンの気持に思いを馳せて、著書「ビートルズ」のなかで次のように分析している。

この時ビートルズが東京にしかやってこなかったという事実は、とりわけ地方にいる少年たちに大きな刺激となった。ビートルズがリバプールで用意されたように、まだビートルズを持たない我々にも何かを〈地方〉で作り出す必要が生じたのである。それが数年して関西フォーク、広島のフォークシンガー、博多のバンドと言う具合に、日本でも地方から自作自演のミュージシャンが次々と輩出することになった。

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きたやまおさむ著
「ビートルズ」

講談社現代新書


北山修が書いたとおりに日本の各地から、ビートルズになろうとする若者が続々登場してきた。広島フォーク村から音楽シーンに出てきた吉田拓郎は、その名も「ビートルズが教えてくれた」という歌をうたっている。

「ビートルズが教えてくれた」
作詞 岡本おさみ 作曲 吉田拓郎

勲章を与えてくれるのなら
女王陛下からもらってしまおう
女王陛下はいいおんなだから
つきあってみたいと思う
それも自由だと
ビートルズが教えてくれた
くれるものはもらってしまえ
欲しいものはものにしたい
その代わり捨てるのも勝手さ
もらうも捨てるも勝手さ
ビートルズが教えてくれた
ビートルズが教えてくれた
ビートルズが

日本のシンガーソングライターの代名詞的存在と言える井上陽水は、炭鉱町だった福岡県糸田町の歯科医の家に生まれた。15歳の時に受験勉強しながら、文化放送から全国にネットされていたラジオ番組『9500万人のポピュラーリクエスト』を聞いていると、前ぶれもなく不意に人生の転機が訪れたという。イギリスの最新のヒット曲として紹介されたビートルズの「プリーズ・プリーズ・ミー」が、彼の心を撃ち抜いたのだ。

その衝撃と感動を翌日、学校で友人に話すと彼は共感し、一緒になってビートルズに熱中してくれた。裕福な家庭に育ったその友人からお古のテープレコーダーを安く譲ってもらい、さらに友人が買ったビートルズのレコードを借りて全部テープにコピーして、擦り切れるようになるまで聴いた。

ビートルズ一色の青春時代を過ごしたことが、井上陽水というアーティストの誕生につながっていく。

そして実家を継ぐために九州歯科大学を目指して浪人していた時、ラジオの深夜放送から流れてきたフォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」を耳にした。ビートルズの「トゥモロー・ネバー・ノウズ」を思わせるようなテープの早回し、「ハード・デイズ・ナイト」や「グッド・デイ・サンシャイン」が引用された不思議な曲は、大流行の兆しを見せていた。

井上陽水は「これが受けるなら自分にも可能性がある」と、そこから真剣に歌手を目指して1969年4月、ビートルズとフォークルに影響を受けて作った自作曲をテープに吹き込んで、地元のRKBラジオに持ち込んだ。

その「カンドレ・マンドレ」を聴いたディレクターが気に入ってくれたことから、9月にはCBSソニーレコードからアンドレ・カンドレという芸名でデビューした。

ビートルズが教えてくれたことは、こうして日本の音楽シーンに受け継がれたのである。

→次回は5月11日更新予定

文 / 佐藤剛
最上部の写真:撮影 / 長谷部宏 提供 / シンコーミュージック・エンターテイメント

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。 著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『歌えば何かが変わる:歌謡の昭和史』(篠木雅博との共著・徳間書店)。

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