ビートルズの武道館公演を実現させた陰の立役者たち  vol. 57

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最終章 最後まで裏方に徹して生きたミュージックマン

最終章 最後まで裏方に徹して生きたミュージックマン

最終章

さて、最後にあれだけクレバーで優秀だった石坂範一郎が、どうして自ら育てあげた東芝レコードの社長になれなかったのか、あるいはならなかったのかについて考えてみたい。

本人に世俗的な出世欲がなかったので、自分から社長になろういう構えを見せなかったと言われているが、それは事実だろう。

しかしそのほかにも特別な事情があったことは想像できる。とりわけ“ミスター経団連”とも呼ばれたカリスマ財界人、石坂泰三の圧倒的な存在感が強く影響していたと思われる。

泰三の発言がしばしば新聞や雑誌に大きく取り上げられたのは、独特の表現と哲学に彩られた言葉が、的確な文明批評になったりしたからだった。権力を持っている財界人の長老としてではなく、見識のある教養人として、泰三は常に各方面から注目されていた。

東急グループを率いる五島慶太の長男だった五島昇は、泰三のことを“財界の修身の先生”と呼んだ。

その通り、泰三本人も社会のに役に立つならばと300を超える役職について、自他ともに認める清廉潔白で堂々たる人生を全うした。

そんな泰三の人事における身内の身びいきについて、三鬼陽之助の「東芝の悲劇」にはひとつのエピソードが記してあった。

石坂が非難されている人事に、弟の石坂禄郎を、東芝機械の専務に就任させていることがある。明治三十年一月生まれ。大正十一年、東大の経済を出、正金銀行を振り出しに、輸出入銀行理事から、昭和三十二年、転出したものだが、その経営者としての手腕はりっぱとしても、天下の石坂として、いささか公私混同したというのである。石坂は、日本財界の象徴的存在である。だから、一般は神様的に見たがるのである。
(三鬼陽之助著「東芝の悲劇」カッパ・ブックス)

1965年にこれが現在形として書かれていたことからみても、身内であるものにとってはもちろんだが、泰三自身にも外野からの目や声が気になっていたことがわかる。したがって範一郎が社長の座を強く求めないのであれば、泰三はそうであったほうが何かと好都合だったはずだ。

もしビートルズの来日に関して泰三が関係各所に話を持っていく場合にも、少しでも公私混同が疑われたりしないように、身のまわりをきれいにしている必要があった。

東芝レコードはそもそも泰三が意地を張って設立したという経緯もあり、しかもすぐに経営危機に陥るなどしたことから、特に気にかかっていた会社であった。だから常に優しくはあっても厳しい目で見ていたし、見ていて我慢ができなくなると、思わず「つぶしたほうがいい」という暴言が放たれたのだった。

「ベートーベンや山田耕筰で儲けるんならいいが、あんなもの(ビートルズ)で儲けるのはけしからん。あんな歌で儲けて会社をやっていくんなら、むしろつぶしたほうがいい」

梶原一明著
「石坂泰三語録 「無事是貴人」の人生哲学」

PHP研究所

常に注目を集める立場にいたからこそ、泰三にとって放言や毒舌はひとつの武器であった。したがって東芝レコードについての暴言は、一種の愛情表現であったとも思われる。

本音では「俺の目の黒いうちは絶対に潰させない」と泰三が語っていたことを、長男の石坂一義(ケンウッド社長)が「石坂泰三語録」の中で証言している。

格別の親愛の情があればこそ歯に衣着せぬ物言いになったと考えていいだろう。泰三が残した語録にはこんな格言もあった。

青年はすべからく素直たるべし。壮年はすべからく狸芸に出るべし。老人はすべからくいよいよ横着に構えて、憎まれることを覚悟すべし。
(同上)

ビートルズの来日に関しては、途中から佐藤栄作首相までが日本武道館を使うことに疑義をはさんできた。そうしたことに配慮するためにあえて、暴言を放ったということも考えられなくはない。正力松太郎と同様に本心では認めていたのに、対外的には怒りのポーズをとった可能性も高いのである。

そうした狸芸については、もちろん範一郎も十分に承知していたはずだ。だから己の信念を曲げずに、日本の少年少女たちや若者たちのために泰三を説得して、各方面の協力を取り付けることで、ビートルズの来日公演を実現させたのであろう。

泰三は70歳になってから12年間、経団連の会長を務めて育ち盛りの日本経済をリードした。さらには戦後のよちよち歩きから見事に成人した日本経済のちからを、世界に堂々と展示したいとの思いから、引き受け手のなかった大阪万博の会長に、79歳の高齢にもかかわらず就任している。

本人は「無事是貴人(何事もないのが最上の人生)」という、禅僧の言葉を理想としていたが、意に反して東芝社長、経団連会長、万博会長と、他に引き受け手がいないために、意を決して引き受けてきた。

84歳にして万博を成功させた後も、泰三にはまだ250近くもの肩書きが残っていた。

そして1975年、88歳で堂々たる人生を終えた。経団連による葬儀が行われたのは日本武道館であった。

「無事是貴人」を夢見ながらも、頼まれれば断れずに、国家公共のために尽くした「奉公人生」だった。

石坂範一郎は専務取締役のまま東芝レコードを定年で退職し、日本著作権協会常任幹事として後進の指導に努めた。最後に手がけた仕事は、レコードの歴史を研究した、「レコードの歴史~エディソンからビートルズまで」の翻訳である。

日本の音楽業界で働く人やオーディオ・ファンのために、レコード文化の基礎教養の書として残そうとしたのだ。そして翻訳を終えた直後の1980年4月23日、出版を待たずに74歳で静かに永眠した。

最後までミュージックマンとして生きて、その生涯を全うしたのだった。

音楽評論家の野口久光は10月に刊行された同書の前書きに、石坂範一郎の人となりを綴る追悼の文章を寄稿している。

長年公私お世話になり、親しくしていただいた東芝音楽出版の石坂範一郎さんが、突然亡くなられ、翻訳を終えられ出版の準備が進められていた本書に書かせていただくことになっていた小文を追悼の言葉で綴らなければならないことになったのは残念でなりません。
今年の三月、畏友、蘆原英了さんのお葬式の日、青山斎場でお会いした時、いつものようにお元気そうだった石坂さんは「近いうちにゆっくり会いましょうや」といわれ、お別れしたのが最後になるとは思ってもみないことでした。
築地時代のビクターの洋楽部長だったころから、数寄屋橋、東芝ビルにあった東芝音楽工業の洋楽部長になられてこのかた、石坂さんに教えていただいたことは、数えきれないほどです。
〈略〉
石坂さんは、レコードが七十八回転シェラック盤、日本でいうSP時代からLP時代、ステレオ時代のこんにちに至る長いあいだ、レコード業界の要職にあってリーダーシップをとられるとともに、海外のレコード会社の同業者、レコーディング・アーティストとも公私深い交友をもたれ、レコード、蓄音機(いまのオーディオ)に関しての研究家、ヒストリアンでもあったといえます。ただ、演劇の世界でいえば、舞台に立つ華やかなスターではなく、プロデューサーや演出家のような影の立役者だったということになりましょう。
享年七四歳、年齢(おとし)よりはるかに若々しく、スポーツ選手のOBといったお元気な石坂さんのあの温厚な微笑に接しられなくなってしまったのはほんとうに悲しいことです。
そして石坂さんの最後の仕事となった本書を音楽ファン、レコード愛好家の方々とともに読ましていただき、ご冥福をお祈りしたいとおもいます。
(ローラン・ジェラッド著/石坂範一郎訳『レコードの歴史~エディソンからビートルズまで』音楽之友社)

最後の仕事となった本の原題は「The FabulousPhonograph(素晴らしい蓄音機)」、初版が出版されたのは1955年だ。

石坂泰三という巨星の命を受けて東芝レコードを起ちあげたまさにその時、アメリカで発行されたばかりの本を当時の範一郎は熟読して、新しいレコード会社の仕事に役立てていたに違いない。

ビートルズの愛称である「Fab Four」にも通じる「FabPhono」、すなわち素晴らしいレコード・プレーヤーというタイトルも、今になってみれば不思議なめぐり合わせだと思う。

しかも初版では「FromEdison to Stereo(エディソンからステレオまで)」、増補版では「1877-1977」となっていた副題を、日本版で「レコードの歴史~エディソンからビートルズまで」とした。

「ビートルズまで」と名づけたところには、万感の思いが込められていたのだと思っている。

石坂範一郎は創立者として東芝レコードを一流企業に育てるだけでなく、経営者としても見事な実績を残して、東芝本社からやってくる後継者に引き渡した。作詞家の阿久悠をして「日本の音楽のビッグバン」と言わしめたビートルズ日本公演でも、表舞台には信頼する永島達司を立たせて裏で支えていた。

そして、周囲には自分が関わっていることさえ、知られないようにと気を配った。

また「SUKIYAKI」の大ヒットによって、日本で作られた音楽が世界に通用することを証明した。

これはトヨタよりもソニーよりも、もちろん東芝よりも早く、日本文化の国際性を世界に知らしむることになった。ここでも手柄を明かすこともなく、最後まで裏方に徹していた。

大言壮語せず、放言も暴言もなく、いつも未来に目を向けながら、読書と思索によって過去から多くを学び、それを役立てて泰三に与えられた使命を全うして生きた。

その生涯はまさに英国紳士のごとくであり、日本のサムライのようでもあった。

そしてそれはまさに泰三が理想としながらも、ついに果たせなかった人生だった。

泰三が中国の古典「菜根譚」の中で、とくに好んだという文章がある。石坂範一郎にこそ、これは当てはまる。

人知名位為楽、不知無名無位之楽為最真。
人知饑寒為憂、不知不饑不寒之憂為更甚。

人は名を挙げて位に上がる楽を知っているが
無名無位の楽もあり、それが真の楽であることを知らない
人は餓えや寒さに凍える苦しみを知っているが
満たされている者の憂いと不安が、最も深刻であることを知らない

佐藤剛

文 / 佐藤剛
最上部の写真:撮影 / 長谷部宏 提供 / シンコーミュージック・エンターテイメント

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。 著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『歌えば何かが変わる:歌謡の昭和史』(篠木雅博との共著・徳間書店)。

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