時代を映したポップスの匠たち  vol. 20

Column

上條恒彦+六文銭の「出発の歌―失われた時をもとめて―」の秘密

上條恒彦+六文銭の「出発の歌―失われた時をもとめて―」の秘密

「出発の歌―失われた時をもとめて―」が世界歌謡祭でグランプリを受賞したのは1971年の11月のことだった。歌と演奏は上條恒彦+六文銭。作詞は及川恒平、作曲は小室等。及川と小室は当時の六文銭のメンバー。受賞はその前月の合歓ポピュラーフェスティバルに優勝したのに続く快挙だった。シングル盤で発売されたこの曲は、その勢いに乗って大ヒットした。

「出発の歌」の前にも、自作自演のアーティストがヒット曲を出すことがなかったわけではない。これまでこのコラムで取り上げてきたように、1970年ごろまでには森山良子、高田渡、岡林信康、ジャックス、フォーク・クルセダーズ、ムッシュかまやつ、吉田拓郎、はっぴいえんど、浅川マキなどが、それぞれのやり方で自作自演作品を発表していた。

歌謡曲を中心に回っていた音楽業界では、そうした曲はまだ例外扱いで、フォーク・クルセダーズのメガ・ヒット「帰って来たヨッパライ」ですら、アンダーグラウンドな現象がたまたま浮上してきただけ、とみなされていた。しかし目に見えないところでは状況が変わりつつあった。アマチュアやセミプロのミュージシャンたちの間に、自作自演は音楽表現の新しい方法論だという考え方が広がっていたのだ。

世界に目を向けても、ビートルズやボブ・ディランをはじめ、数多くの自作自演アーティストが、従来の定型的なポップスにとどまらない、複雑な味わいの音楽を次々に発表していた。日本でも同じようにできないわけがないのでは、と考える人たちが増えてきたのは不思議ではない。1967年に森山良子の「この広い野原いっぱい」がぽつりと灯をつけたころとちがって、70年代に入ってからは、自作自演アーティストの活動が点から面へと、同時多発的に広がろうとしていた。

「出発の歌」はそんな時と所に、登場すべくして登場してきた曲だった。大きな歌謡祭での受賞によって、自作自演曲にまつわるアンダーグラウンドな印象が拭い去られ、世間の反応も変わった。「出発の歌」を追って、吉田拓郎やあがた森魚のヒットが雪崩のように続きはじめた。そのひきがねを引いたという意味でも、この曲が果たした役割は大きい。

ちなみに合歓ポピュラーフェスティバルは1969年から72年まで、「作曲家に作品を発表する機会を与え、日本のポピュラー音楽の質の向上と反映をはかるという目的で」行われたヤマハ主催のコンテスト。大手レコード会社の専属制が崩れはじめた時期に、その先を模索するコンテストという側面も持っていた。この音楽祭では、おおむねソングライターと歌手・演奏者がチームを組んで出場した。作曲家に対する賞だから、演唱者が別なのは不思議ではないが、その形は歌謡曲の制作スタイルに近かったとも言える。

1971年には村井邦彦、平尾昌晃、川口真、鈴木邦彦、ミッキー・カーティス、宮川泰らがエントリー、歌手も沢田研二、中尾ミエ、弘田三枝子など、豪華で多彩な顔ぶれだった。その顔ぶれの派手さからすると、小室等や上條恒彦は無名に近かった。しかも小室等は六文銭というグループの一員として上條恒彦と共に演奏側にも立つという異色の参加だった。

現在はミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』などで活躍している上條恒彦は、「出発の歌」の前は、うたごえ喫茶の指導員をはじめ、さまざまな仕事につきながら、歌手をめざしていた。うたごえ喫茶は、お客さんが合唱するための喫茶店で、インストラクターがいて、アコーディオンを弾きながら、簡単な合唱や輪唱の指揮をとった。うたわれたのは日本の唱歌や歌曲、歌謡曲の中の文芸路線の曲、ロシア民謡をはじめとする各国の民謡や歌曲などだった。

六文銭は、1968年に小室等らが結成したグループで、居酒屋の名前とサマセット・モームの小説『月と6ペンス』がグループ名の由来だそう。ちなみにこの言葉は江戸時代には民間で三途の川の渡し賃として使われていた。

話を合歓ポピュラーフェスティバルに戻すと、小室等は前年度の1970年にも新人歌手部門出場の上條恒彦と組んで、作曲家として参加したが、そのときは賞と無縁だったので、「出発の歌」は再挑戦だった。編曲は元ジャックスの木田高介が担当した。

クレジットされていないが、この曲にはもう一人補編曲者がいる。出演者はヤマハの合歓の郷に宿泊するので、宿舎で出演者の交流が自然にはじまる。小室等の話によれば、六文銭が飲んでいるところに、いろんな人がやって来たが、その中にエントリーしていた中村八大がいた。言うまでもなく「上を向いて歩こう」の作曲家であり、六文銭からすると、雲の上の人、プロ中のプロである。

 その彼が、いい編曲だけど、後半の展開はもう少し手を加えた方がいいと助言してくれた。それだけでなく、実際にスコアも書いてくれたのだという。フォーク・ソングにしては異例のこの曲の後半の、ストリングスや管楽器の入った演奏のドラマチックな展開の秘密はそんなところにあったのだ。

ジャズ世代の才能とフォーク世代の才能の出会いが、新しい時代の扉を準備したというのは、実にいい話ではないだろうか。中村八大もフリーのソングライターとして、専属制度の外側で活躍していた人だ。世代や作品の傾向こそちがえ、音楽業界の外側から登場してきたフォーク世代の姿勢には感じるところがあったにちがいない。

(記事作成にあたって小室等氏に協力いただきました。この場を借りて感謝します)

文 / 北中正和

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