【80年代名鑑】明菜からYMOまで 80'sからの授かりもの  vol. 21

Column

1984年。逆風のなかデビュ-した、「TM NETWORK」

1984年。逆風のなかデビュ-した、「TM NETWORK」

最近お会いしてないが、かつては小室哲哉によく取材させてもらっていた。彼はアーティストであったが、もちろんプロデューサーとしてのマインドを強く備えていて、インタビューのし甲斐もあった。ステージに居る人間の気持ちも訊けたし、袖でそれを客観的に見守る人間の気持ちも訊けたのだ。これから紹介するエピソードは、後者としての立場が強く出た話だ。

彼が木根尚登、宇都宮隆とともに「TM NETWORK」を結成したのは、1983年のことだったが、せっかく活動するなら売れることを目指し、レコード会社や事務所への売り込みも、積極的に行った。でもそれは、むしろ逆の、消極的とも思える方法だった。自分達のオリジナル曲を2曲、カセット・テープに入れ、メンバーがどうとか一切のメモはつけず、ただただ音源だけを20社以上に送ったのだ。収録したのは、小室作の「1974」と、木根作の「パノラマジック」だった。それでも沢山の反響があったそうだ。そして三人がはっきり頭角を現わしたのは、当時「コカ・コーラ」が冠で開催されていた、「フレッシュ・サウンズ・コンテスト」でグランプリを獲得したからだった。

僕はその時、小室が送ったカセットが、2曲入りだったことに注目する。というのも、彼からこんな話を聞いたことがあるからだ。当時、「TM NETWORK」だけじゃなく、作曲家としても活動を始めていた小室は、座っていれば依頼が舞い込む立場ではなかった。曲を書いても、採用されるとは限らなかったのだ。提供したのは「アイドル」と呼ばれた人達が多かったが、担当のプロデューサーやディレクターに、作品を気に入って貰わないことには始まらなかった。その時、どうしたのか。

「2」,という数字がポイントだ。彼は曲を相手に持って行く時に、「絶対の自信作です!」と、1曲だけ持っていっていくことはしなかった。かといって、何曲か揃え、「色々なものが書けますよ」と、そうアピールすることもしない。昨日、寝ないでずーっと考えたけど、どうしても絞り切れませんでした、的に、2曲渡したのだそうだ。すると大抵、その片方が採用されたというのである。

人間は選べるようでいて選べない。でも人間は選びたい。そんな心理を読んでの作戦が、つまりは「2」、だったということなのだ。それは「TM NETWORK」として世の中の扉を叩こうとした時も、2曲入りカセットという形で、貫かれたのだろう。やがて彼らは、とあるレコード会社と契約し、デビューを果たす。

60年代に活躍された芸能記者の方が、こんな回想をしていた。出社して少しすると、必ず向かった場所があったというのだ。それは「渡辺プロダクション」。行ってもやることがない時は、誰かと将棋でも指して、夜になれば飲みに出掛ける。そんなことの繰り返しでも、充分な情報収集が出来たらしい。でもこれは、当時のスター達が、ナベプロに一極集中してたからこそ可能だったのだろう。

そして80年代。さすがにそこまでではないけれど、僕には仕事で頻繁に顔を出す場所があった。青山ツイン・タワー・ビルの西館8階にある、「エピック・ソニー」のオフィスである。このレーベルからは、実に興味深い新人が次から次へと現われた。その中には、その後、J-POPの礎を築いた人達も数多い。

先日、とある機会に渡辺美里と鈴木雅之の歌を生で聴いたけど、彼らもここの出身だ。他にも佐野元春とかドリカムとかジュディマリとか、名前を挙げたらキリがない。このレーベルの最大の特徴は、似たような人が被って登場することなく、多士済々というか、そんな状態がずーっと続いたことだった。そして小室哲哉が「TM NETWORK」のメンバーとしてデビューしたのも、このレーベルからである。

1984年の4月21日。彼らは「金曜日のライオン」でデビューする。この曲は、“いま聴いても古くない”と言われる。それはおそらく、ここに描かれた世界観が、その後も“消費され尽くす”ことなく、いまも何かを訴えかけてくるからだろう。改めてじっくり聞いてみることにしよう。

当時流行っていた洋楽でいえば、TOTOの「Africa」とも通じる世界観にも思えるが、ビルがひしめく大都会と、遥かに続くサバンナの地平線…、そんなふたつの場所を、意識がワープするかのように展開していく。でもメッセージ性に酔うようなことはせず、しっかりラブ・ソングとして聴ける。

タイトルがいい。ちなみにライオンは、曜日なんて関係なくガォーって暮らしてる。しかし人間にとって、それは心ときめく週末でもある。僕にはそんなふたつの言葉のコラージュのように思える。

歌詞を眺めてたら、ふたりが出会った街として、“Bobo Dioulasso”なる地名が出てくることに気づいた。多分、当時も気づいてたと思うが、特に気にすることなく、“アフリカのどっかだろう”くらいに聞きながしていたのかもしれない。改めて調べると ブルキナファソという国の主要な空港がある都市のようだ。ブルキナファソは北にマリ、東にニジェール、南にガーナと接する西アフリカの国だそうだ。ようだ、そうだの連発で恐縮だが、でも空港のある都市なら、出会いの場所としても説得力もあるわけである。

 作詞作曲は小室哲哉だ。「サウンドのことはみんな言ってくれるんだけど、実は僕、“金曜日のライオン”の頃から歌詞にも自信あったんですよ」。後年、彼がポツリとこんなことを言っていたのを思いだした。

しかし残念ながら、デビューして一気にスターダムへ、ということにはならなかった。作品の出来と商業的な結果は、必ずしも足並みが揃うわけじゃなく、それは仕方ないことだろう、と、書くと、彼らを初期から理解し、支持していた人間のようだけど、本当にゴメンナサイ。最初は彼らのこと、よく分かってなかった。

言い訳と思われるかもしれないが、時代背景めいたことを書くと、デビュー時に彼らの掲げたコンセプトは、逆風を受けやすかったのだ。まずデビューの前年、大ブームを巻き起こしたYMOが、“散開”という名の解散を果たす。これを「テクノポップの終焉」と捉えた人は多かった。その直後に登場した「TM NETWORK」は、電子楽器を使うということではYMOのフォロワーに思えた(キビしい言い方だと、二番煎じのようにも。実際にはこの両者、相当違うわけだが…)。

さらにこの頃といえば、ブルース・スプリングスティーンが世界的なヒットをしていて、彼の影響から、男気ばりばりのロックが主流でもあった。特に日本における“スプリングスティーン調”の氾濫はすさまじいものがあった。あの尾崎豊も登場し、彼が新宿の「ルイード」で初のライブを行ったのは、小室たちがデビューする前の月なのだ。流されやすい僕などは、「テクノの次は肉体派の音楽。例えば尾崎とかかな」などと、勝手に思っていたわけだ。 

「TM NETWORK」の目指していたのは、まったく違っていた。“音楽とヴィジュアルの融合”でもあった。しかしあの頃、ヴィジュアルを重視すると、誤解されやすかった。外見か中身か、みたいな二元論に巻き込まれ、割を食うことにもなった。デビューはしたものの、小室たちにとって、辛抱の日々が続いていった。

文 / 小貫信昭

「金曜日のライオン」(アルバム『RAINBOW RAINBOW』より)

その他のTM NETWORKの作品はこちらへ

vol.20
vol.21
vol.22