黒川文雄のエンタメ異人伝  vol. 4

Interview

FF生みの親、坂口氏(上)学生時代の壮大なドラマ。田中弘道氏との出会いから風が、変わる

FF生みの親、坂口氏(上)学生時代の壮大なドラマ。田中弘道氏との出会いから風が、変わる

音楽、映画、ゲームなどを総称するエンタテインメントは、人類の歴史とともに生まれ、時代に愛され、変化と進化を遂げてきました。 そこには、それらを創り、育て、成熟へ導いた情熱に溢れた人々がいます。この偉人であり、異人たちにフォーカスしインタビュー形式で紹介するエンタメ異人伝。 今回のゲストは、ご存じRPGの傑作、ファイナルファンタジーの生みの親、坂口博信氏です。

※本記事は3回にわたってお届けするインタビューの第1回です。

インタビュー取材・文 / 黒川文雄


坂口博信 知られざる少年時代

まず、ご出身のお話からうかがっていきたいと思います。ご出身は茨城ですね?

坂口 そうですね、茨城の日立市。両親は九州の出身です。おふくろは鹿児島県の知覧(ちらん)町っていう特攻隊基地があったところ。親父は熊本県の人吉市です。 両親が茨城に移ったのは高度成長期時代の転職事情の中、親父が日立製作所に勤めることになったからです。その関係で僕も茨城で生まれ育ったという感じですね。

日立という町は坂口さんにとってどんな場所でしたか?

坂口 う~ん、一番良かったのは海が近かったことかな。駅のすぐ裏が海でした。それと近くに大洗とか平磯とか、けっこう有名な海岸があって、当時はウニとかハマグリとか普通にいたから獲ったりしていました。

子供時代に特に好きだったものとか印象に残っていることはありますか?

坂口 マグロ寿司が好きでしたね。スーパーの隣に屋台みたいなのがズラーっと並んでいたんですよ。そこでおじさんたちに交じってマグロ寿司を買って食べていました。

そんなところにひとりで行っていたんですか?

坂口 おふくろが「(買い物をしている間)何かしていなさい」って言って、200円くらいだったかな? お小遣いをくれるわけです。で、スーパーの入口で分かれて、ひとりで200円を握りしめてオヤジたちをかき分けて「マグロくださーい」と。当時は2貫で50円だったので8貫頼めるんです。それが好きでしようがなかった。「マグロのお寿司と緑茶ってなんて合うんだ……」なんて感動しながら食べていましたね。

そんなことをされていたんですか。

坂口 やっていましたねえ、小学校1年生くらいの頃から。スーパーの名前が「供給」っていうんですよ。面白いでしょ? 多分、日立製作所が運営管理していたんじゃないかな。

その頃に坂口さんの後々のクリエイティビティに影響を与えるようなものはありましたか? 例えば、ご両親に映画に連れていってもらったとか。

坂口 親父がよくカンフー映画に連れていってくれましたね。ブルース・リーが出て来る直前くらいの時期ですかね。マイナーなカンフー映画で、タイトルは忘れちゃいましたけど、内容は今でも覚えています。豹とか鶴とか虎とか、いわゆる少林寺の型みたいなのがあるじゃないですか。それぞれの型を使う流派が4つくらいあって、その流派同士が戦うみたいなヤツです。

その時代にそういう映画を観ていた人はすごく少ないと思いますよ。

坂口 多分、親父が好きだったんでしょうけど…、あんまりいないですよね。あれは楽しかったです。あと、僕は地層が好きで。茨城って地層がむき出しになっている場所がけっこうあるんですよ。そこに行って掘ると、方解石(ほうかいせき)というちょっと水晶に似た石が出ることがあったんです。ただ、小学生が地層むき出しの崖にしがみついて ひとりで石を掘っているなんて、おかしな絵ですよね。で、研究所の所員みたいな人が、僕を見つけると声をかけてくるんです。「きみ?何やってるの~?」みたいなね。で、こんな石がいっぱい取れるから楽しいんだって言うと、「それ、方解石じゃないか。おじさんね、ちょっとそれが必要なんだ。次にきれいな石を持ってくるからね、それと交換しよう」って。

え~、そんなことを言う大人がいたんですか。

坂口 そう。でも、本当に必要だったんだと思いますよ。それで、毎回石の標本を持ってきてくれるんです。水晶とか紫水晶とか。方解石の大きさに応じて、その中から1対1とか1対2とかで交換して。そうやって石のコレクションをしていたんです。

そういうこともおやりになっていたんですか。面白いことをされていましたね。

坂口 石が好きで好きでしょうがなかったですよ。昔、でっかいお米の袋があったじゃないですか。あれに貯めていくんですよ。玄関の物置みたいなところに置いていたんですけど、おふくろにしてみたらジャマでしょうがなかったんでしょうね。ある日突然消えていました。「僕の石どうしたの~」、「宝物なのに~」って泣き喚いたのをよく覚えています。

授業をサボってゲームとパチンコ三昧

ゲームとかデジタルに関わるようになったのは高校生くらいからでしょうか?

坂口 そうですね。ちょうど「スペースインベーダー」が出たころかな。もちろん、熱中していましたよ。授業をサボって喫茶店に通って。『平安京エイリアン』(注1)を無心にやったなあ。

注1)碁盤上の迷路で落とし穴を掘り、エイリアンを埋めることで倒していく。東京大学の理論科学グループが1979年に開発したゲームでインベーダーゲームとともに人気となった。

その頃、パチンコにもハマっていたとお聞きしましたが。

坂口 パチプロについて教わってね。まだパチスロなんかない時代で、しかも、コレ(手打ち)ですからね。確率じゃないから技術で出せたんです。そして喫茶店に行って、おいしいコーヒーを飲んで『平安京エイリアン』をやって、映画を2本くらい観てっていうすごくリッチな高校生活をしていました。

そもそも、そんなパチプロさんとどこで知り合ったんですか。

坂口 だって毎日パチンコ屋で顔を突き合わせていましたから。毎朝並んでいると「なんだ、高校生じゃないのか?」って声をかけられて、「いや、違いますよ」なんて言って。一応、私服の高校だったからバレなかったんです。そうこうするうちに「面白いやつだなあ」、「教えてやろうか、オレが」ってなっていくわけですよ。

毎日パチンコ屋に行っていたんですか。学校はどうされていたんです?

坂口 午前中は代返を頼んで午後から(笑)…。で、午後の授業が終わったらパチンコで稼いだお金を持って喫茶店に行って、映画を観て家に帰るみたいな。ヤバいよね。

よく単位を取れましたよね。

坂口 ギリギリでしたよ。英語と化学で赤点を取ってあわや留年かってときがありました。先生に呼び出されて「お前どうすんだ」と。「すみません、もう1回やらして下さい」って言って、勉強して何とか点を取るみたいな。いや~、ヤバかったですよ。水戸一高というところに通っていたんですけど、そこは茨城で一番厳しい学校だったんですよ。制服がないとか、ユルいところはユルかったんですけどね。

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