黒川文雄のエンタメ異人伝  vol. 4

Interview

FF生みの親、坂口氏(中)「ファイナル」ファンタジーではなかった!?「FF」と「スクウェア」の物語

FF生みの親、坂口氏(中)「ファイナル」ファンタジーではなかった!?「FF」と「スクウェア」の物語

音楽、映画、ゲームなどを総称するエンタテインメントは、人類の歴史とともに生まれ、時代に愛され、変化と進化を遂げてきました。 そこには、それらを創り、育て、成熟へ導いた情熱に溢れた人々がいます。この偉人であり、異人たちにフォーカスしインタビュー形式で紹介するエンタメ異人伝。 今回のゲストは、ご存じRPGの傑作、ファイナルファンタジーの生みの親、坂口博信氏です。

※本記事は3回にわたってお届けするインタビューの第2回です。第1回(上)はこちら

インタビュー取材・文 / 黒川文雄


今改めて明かされるスクウェア社名の由来とは

なぜ「スクウェア」という名前になったんでしょうか。

(写真前列 左現ガンホーOE人見氏、シリコンスタジオ梶谷氏 
後列左 現ガンホーOE田中氏)

坂口 これがもう最低なんですよね。(笑)
当時の社報とかにはオーナーが「「みんなが集まるスクウェア」を意味するとか書いてあるんだけど全然違いますよ。僕が「なんでスクウェアって付けたんですか」って聞いたら、「ああ、俺なあスクウェアグリップ(ゴルフクラブの握り方のひとつ)やねん。自分の好きなグリップだから“スクウェア”」みたいな(笑)。それ、社報に書かないんですかって聞いたら、「恥ずかしいから、ちょっと違うのにせえへん?」とか言うので、「じゃあ広場とかにしちゃいますか」、「いいね。そういうことにしとこうよ」って。だから多分、社名にはあんまり思い入れもなかったと思いますよ。

ホントですか? そうなんだ。すごいエピソードですね、それは。

坂口 そんなもんです。

ここで同席していたミストウォーカーの広報氏がウィキペディアの記事をチェック。そこにはスクウェアの社名は「スクウェアグリップ」に由来していて「ゴルフでは飛球線に対して90度に正対している状態を指す。問題に対して逃げ腰ではなく、直視していく企業体を目指す意味で名付けられた」と書かれていたのだが……。

坂口 そんなことオーナーから聞いたことない! ウソだよ、全然違うよ。「僕が好きなのはスクウェアグリップや~」って言っていたもん!

電友社時代からスクウェアへ歴史の変遷

ハハハハ。でも、その当時からどんどん横に広がっていったわけですよね。例えば、田中さんは一緒にアルバイトをしていたわけですし、植松伸夫さん(注14)も音楽を作れる人がいると紹介されたんですよね?

注14)『ファイナルファンタジー』シリーズや『クロノトリガー』などの音楽を手掛けたゲーム音楽作曲家。

坂口 そうですね。当時雇っていたグラフィッカーのひとりが植松さんと知り合いで、たまたま日吉で音楽活動をしていたので紹介してもらったという感じですね。

その頃の営業的なことって鈴木さんが担当されていたんですか?

坂口 いや、宮本さんよりも年上の斎藤さんが営業担当でした。車販売のヤナセのバリバリ営業マンからの転職でね。その斎藤さんと宮本さんが任天堂や問屋さんとの交渉をしていましたね。

そのあと、会社が日吉から銀座に移ったわけですよね。場所柄がまた全然違いますけど何か思い出はありますか。

坂口 銀座は近くに御飯を食べるところなかったから、銀座松屋の上のレストラン街とかに行っていたんですよ。銀座アスターとか入っていて、けっこう安くて美味しかったの。でも、僕らみんな汚い恰好をしていましたからね。しかも、徹夜しているから臭い。そんな異臭を放つ短パンTシャツサンダル軍団が、「どうするよメシ」とか言いながら銀座の街を歩いているわけです(笑)。だから、銀座のマダムたちが「アンタたち何なの?」って顔をするんですよ。

それは確かに浮きますよね。

坂口 当時のオフィスは東銀座駅の階段を登ってすぐのところ、昭和通り沿いにありましたからね。裏に行けばすぐ歌舞伎座で、表に出ればもう銀座のメイン通りですよ。行き場がない(笑)。

それは回りからしたら違和感ありますよね。

坂口 ありますよねえ。僕らも意味不明だったもんね。「なんでここ?」みたいな。

やっぱり当時はそんな感じだったんですか。泊まり込みとか徹夜とかして……。

坂口 そうですね。当時はビーチベッドを使っていました。普段は畳んで机の下に入れておくわけですよ。それで、夜眠くなるとガチャガチャっと開いて寝るんですけど、ビーチベッドってけっこう腰のあたりがたわんでくるんですよね。

なりますよね。腰を痛めませんでしたか?

坂口 痛かったけど若かったですらね。今、そんなことをやったら一晩でもうボロボロですね(笑)

銀座にいたのは2年くらいでしたか。そのあと御徒町ですよね。やはり会社の経営的にキツくなっていたのでしょうか。

坂口 完全にそうですね。ファミコンで何作か出していましたが、どれもヒットしなかったですから。オーナーとしてはそこでヒット作が生まれると思っていたんでしょうけど、かなり資金的に苦しくなって、家賃が月2000万円から10分の1の月200万円のところに。

ええっ? そんなに高かったんですか!?

坂口 銀座だったら月2000万円くらいしますよ。だって、ビル1棟借りしていましたから。バブルがはじけて、とある会社が出たあとのちょっといわくつきの物件だったんですが、小さいながらもけっこういいビルで、すごくリッチでしたよ。最上階はなんかシャンデリアがバーンとあって周りにはソファーが置かれていて、そこで社員は宴会ができるみたいな。

でも、当時で月2000万円の家賃ってすごい金額ですよね? 当然、坂口さんたち社員がいて販管費がかかっているわけだから単純に月4000万~5000万円は必要になるわけですよね。

坂口 かなり利益を出さないとやっていけないですよね。だから無理で月200万円の御徒町に移ったんです。家賃は下がったけど、でもそっちのほうが広かったですね。

御徒町時代はどうでしたか? よく床で寝ていて女性のスタッフから嫌がられたという話をされていましたが。

坂口 それは日吉の頃です。狭かったから掃除のときジャマだったんですよ、イスで寝ているヤツらが。日吉ではキャスターのついたイスを4つくらい並べて寝ていたんです。「スタイリー、スタイリー」とか言いながらね。読んでいる人は分かんないだろうな、これ(笑)。

大丈夫です。昭和の人は分かりますよ(笑)。

坂口 それで、掃除できないからどかしたいんだけど、汚いから触りたくなかったんでしょうね。掃除機の先端でイスをクッと押すんですよ。そうするとキャスター付きのイスなのでコロコロ動くわけです。「坂口、ジャマ」とか言いながらね。朝はたいていそうやって転がされていました。

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