【80年代名鑑】明菜からYMOまで 80'sからの授かりもの  vol. 22

Column

小室哲哉が描く、幼年期の終り(『CHILDHOOD'S END』)と自分達の未来

小室哲哉が描く、幼年期の終り(『CHILDHOOD'S END』)と自分達の未来

小室がSF小説のファンだったことは、彼の自由な発想に、少なからず影響を与えたのだろう。そもそもデビュー・アルバム『RAINBOW RAINBOW』の世界観は、愛読してきたレイ・ブラッドベリにあるような“日常的な幻想の世界”を描こうとしたものだったというし、この“日常的”という言葉の意味は、彼のなかでサウンド作りにおいて、「とことんポップであること」と同義だったろう。詞や曲やサウンドがすべて“火星っぽく”ては日常感が湧かない。地球が前提じゃなきゃ、その中に忍ばせた“幻想”も際立たないわけである。そういやデビュー・アルバム。曲によっては下世話とも思われるディスコ・サウンドを彷彿させる16ビートだったりもしたが、それもまさに日常感の演出だったかもしれない。

85年6月には『CHILDHOOD’S END』という、セカンド・アルバムがリリースされる。アーサー・C・クラークの有名なSF小説『幼年期の終り』から取ったタイトルである。ここ最近、SF小説の人気というのはどうなんだろうかと思うが、『幼年期の終り』は、“宇宙人でも攻めてきたら地球人は争いをやめるのに”的発想の物語のなかで、最も驚嘆すべき考察を伴った傑作として知られる。

そして小室がこの小説のタイトルを借りたのは、「TM NETWORK」というグループの歩みを踏まえてのことでもあった。デビューした彼らの“幼年期”がここで終わったのだ。次は自分達の足で歩み出す番なのである。ちなみに、宇宙から地球にやってきた3人が、徐々に地球人に同化していく過程が、セカンドには描かれている。

そう思うと『CHILDHOOD’S END』は、『RAINBOW RAINBOW』よりも男女間の感情の機微、みたいなことも出始めている内容なのであり、見事に辻褄が合っているわけだ。歌詞の一部を三浦徳子、松井五郎といった、職業作詞家に依頼した成果でもあった。

宇都宮隆のボ−カルにしても、当初はさほど感情移入に特化した部分はみられなくて、あえてサウンドの一部を担おうとするような楽器的歌い方、というイメージだったのが、ここにきて、より脈拍の変化も感じられるものになっていった。歌う内容が変われば、当然の結果なのである。

そして遂に、その次のミニ・アルバム『TWINKLE NIGHT』(85年11月)で地球に降り立った、という設定であった。実際、このアルバムの中の当時の人気曲である「ELECTRIC PROPHET(電気じかけの予言者)」では、“二人には出会う訳がある”と、地球上での具体的なストーリーも展開されていくのであった。

ただ、これらの作品集を発表したものの、一般的には受け入れられることがなかった「TM NETWORK」。小室が編みだしたサウンドは、専門誌などで高く評価されていたし、それは彼にとって喜ばしいことだったろうが、目指すはあくまでオーバーグラウンドな人気を得ることだったわけである。

彼らが当初から掲げていた「サウンドとヴィジュアルの融合」ということを、世間はどう受け止めたのだろう。ここで当時の音楽シーンを眺めてみることにしよう。日本版のMTVである「ベスト・ヒット・USA」の放送開始により、マイケルやマドンナなどを始めとして、洋楽の大ブームが巻き起こっていたのがこの時期である。

そして世界的にも日本でも、ニューロマンティックと呼ばれるジャンルが人気を博していた。そもそもは70年代のグラム・ロック(アーティストが化粧するなどグラマラスないでたちだった)に端を発し、こと日本では「ジャパン」というグループが本国以上にブームとなり、さらにカルチャー・クラブとかデュラン・デュランとかヒューマン・リーグとか、多くのアーティストが「ベスト・ヒット・USA」の功績もあって、人気を博したわけである。特徴は、グラム・ロックからの流れである、ヴィジュアル重視の姿勢と、サウンド面ではコンピューターを駆使したものだった。当初は実験的でもあったテクノを、よりポップに発展させたものが主流となった。

当時の若者は僕も含め、初めて「ベスト・ヒット・USA」でカルチャー・クラブを観た時の衝撃を忘れないだろう。特に小室達がデビューした頃に流行った「カーマは気まぐれ」(Karma Chameleon)だ。ボーイ・ジョージの見た目と“カーマ”という言葉の響きを、日本語文化圏で育った僕は、つい関連づけて受取ったものだった。カルチャー・クラブはややキワモノっぽく受取る人達もいたが、デュラン・デュランのように、ジャニーズなどと肩を並べるくらい女子に大人気な人達もいた(このバンドのキーボード走者のニック・ローズのことは、小室も意識していたと思われる)。

つい懐かしくなり脱線してしまった。戻す。もしJ-POPがある意味“洋楽を翻訳する過程で生まれた価値観に負う部分も含むもの”だったとしたら、翻訳の暇が無いほど直接的に、MTVという翻訳装置で日本のチャートをも侵食していたのがこの頃だ。だからちょっと、“和製ニューロマンティック”的に思われなくもなかった「TM NETWORK」は、分が悪かった(小室が単純に洋楽を真似ていたという意味ではない)。また、日本で男性がヴィジュアル重視を打ち出すと、「あのヒトはナルシストだ」と、バッサリ切り捨てる保守層も大勢いた。加えて前回書いた通り、当時といえば、男気とメッセ−ジで勝負するような、ブルース・スプリングスティーン全盛時代というハンデもあったわけである。

ここで小室哲哉の、キーボード奏者としての自己顕示欲について考察してみよう。通常、「TM NETWORK」がステージに立てば、観客の目がまっさきに向かうのはフロントマンであるボーカルの宇都宮隆だろう。でも、本来必ずしもヴィジュアルを担う必要がない人までが、積極的に関わっていくことで、グループとしての姿勢を明確になる。それが小室の役割でもあった。

一般的にキーボード類を担当するのは、音楽理論に長けた学究肌のタイプで、正直、見た目は地味なヒトが多い。日本において、そこに変化が訪れたのがYMOの坂本龍一あたりからだろう。

小室の鍵盤性の自己顕示欲は、どう養われたのだろうか。彼が幼少から習っていたのはバイオリンだったそうだが、ピアノにも習熟しつつ、その後の人生に大きな影響を与えたのが、エマーソン・レイク・アンド・パーマーのキース・エマーソンだった。僕は小室と同世代なので、いかにクラスでエマーソン・レイク・アンド・パーマーの人気が高かったのかを実感として分かっているのだが、ロックなど関心なかった女子も、クラシックにルーツのあるピアノを弾く、見た目も王子様のようなさらさらヘアーのキース・エマーソンには、まさにゾッコンだったのである。

そしてキースは、ピアノをつり上げたり(あくまで演出だが)キーボードにナイフを突き立てるといった過激なパフォーマンスもした。本来は音楽理論に長けた学究肌のタイプが多いこの楽器を担当しつつ、誰よりカッコよく目立つパフォーマンスをした。そりゃ小室が憧れたのも無理はない。

例によって僕は、青山ツイン・タワーのエピック・ソニーに出掛けて行った。誰の取材だったか忘れたけど、やたら沢山、ここのアーティストの取材していたのだ。まだまだ小室にインタビューするのは、あとのことだった。エピックがあるフロアは、エレベーター降りて、確か左側が洋楽で、右側が邦楽セクションだったと記憶する。待ち合わせた人間を探そうと中へ入ると、あとから一人の人間が僕を追い越して入ってきた。現場から帰社したようだ。その手には、「FANKS」という文字が描かれたヘルメットが握られていた。“FANKS”ってなんだろう? 次回へ続く…。

文 / 小貫信昭

参考文献 『小室哲哉インタビューズ Tetsuya Komuro Interviews Complete from 1984 to 2014』(リット−・ミュ−ジック)など

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