黒川文雄のエンタメ異人伝  vol. 6

Interview

乙女ゲーム生みの親 襟川惠子氏(中)大反対?夫シブサワ・コウとの結婚

乙女ゲーム生みの親 襟川惠子氏(中)大反対?夫シブサワ・コウとの結婚

音楽、映画、ゲームなどを総称するエンタテインメントは、人類の歴史とともに生まれ、時代に愛され、変化と進化を遂げてきました。 そこには、それらを創り、育て、成熟へ導いた情熱に溢れた人々がいます。この偉人であり、異人たちにフォーカスしインタビュー形式で紹介するエンタメ異人伝。 今回は乙女ゲームのパイオニアであり、コーエーテクモホールディングス代表取締役会長の襟川恵子氏(恵は旧字体の惠)にご自身の幼少期から、夫であり『信長の野望』シリーズなどのプロデューサーでもあるシブサワ・コウ氏にまつわるお話まで余す事なく伺いました。

※本記事は3回にわたってお届けするインタビューの第2回です。第1回(上)はこちら

インタビュー取材・文 / 黒川文雄


理想の大学生活を求めて多摩美に入学

大学の校庭でジャズバンドの演奏を聴く

それで、多摩美術大学(多摩美)の美術部デザイン科に入学されたわけですが、やはりクリエイティブ志向があったのでしょうか。

襟川恵子 それがまた動機がすごく不純なんですよ(笑)。友達のお姉様が多摩美の油画科に通っていたんですが、その人からすごく楽しい学校だと聞かされたんです。庭には芝生が植わっていて、お昼になると軽音楽部とかフォークソング部とかモダンジャズ部とかが庭に出てきて、みんなで芝生の上に座って音楽を聴いて。しかも、エプロンのデザインを男子がして、女子がそのエプロンを作ってきて、みんながおそろいのエプロンを着けて食事するんですって。聞いたとたんに「ココだ!」と思いましたね。

教室でフルートを吹く

確かにそれは楽しそうですね。なぜ、デザイン科だったのでしょうか。

襟川恵子 油絵科は就職が難しいんです。グラフィックデザインであれば、いろいろ就職先があると思っていました。それでデザイン科を選びました。ところが、絵を教えてくださっていた先生が、多摩美だけしか受けないなんてダメだと。藝大(東京藝術大学)も受けて、滑り止めにも女子美(女子美術大学)や武蔵美(武蔵野美術大学)も受けろと言うんです。

先生にしたら当然そう言いますよね。

襟川恵子 当時の多摩美のグラフィックデザイン科は倍率が高くて、実質は33倍だったとのちに教務課の方に教えてもらいました。確かに入学したら浪人の方が多くて、三浪、四浪の方もいました。だから、普通は滑り止めも受けるんでしょうけれども、私にはそんなことは全然関係なかったんですね。芝生に座って、おそろいのエプロンを着けて、音楽を聴きながらお弁当を食べる。そして就職が有利なのはグラフィックデザインだと。だから多摩美のデザイン科、もうそれしかないんです(笑)。

それは、面白いですね~。

襟川恵子 大学受験のためにお世話なった絵の先生とは今でもお付き合いがあります。私は絵を習い始めたのが遅くて、熱心に休日でも教えて下さったその先生がいなかったら私は現役で合格できなかったと思います。

学生時代は様々なアルバイトを

20代の頃

大学生活はどうでしたか?

襟川恵子 面白かったですよ。映画監督の大島渚さんとか篠田正浩さんとか、一流の方々が教えに来てくださったり。学園祭も……芸術祭っていうんですけど、ものすごくに楽しかったですね。ボディペインティングをしてくる人がいたり、ヌードになっちゃうコもいたりして。模擬店でおいちょかぶをして、出前のラーメン屋さんを参加させて、ラーメン代をチャラにしたり。ただ、私が二年生のときは学生運動でロックアウトの最中だったんですね。

学生運動が盛んな時代でしたからね。

襟川恵子 そうです。なかなか学校に行けなくて、それが残念でした。

ロックアウトされている間、アルバイトとかされていたのですか?

襟川恵子 アルバイトはいっぱいしましたね。テレビ局の子供向け番組のイラストを何十枚も描いたりとか。三越百貨店のディスプレイデザインなどもしました。ウィンドウディスプレイにキャッチコピーを書いて、ショーカードとか置いたりするじゃないですか。ああいったものです。ヒマなときはそこで販売員をしてもよくて、もう働き放題でした。あとは逸品会のディスプレイデザインや出版社の本の表紙のイラストとか。

いろいろなことをされていたんですね。

襟川恵子 そうです。ただ、逸品会というのはホテルが会場で、お客様も一流の方をお呼びするので、さすがに自分たちだけではなかなか手に負えなくて。それで、お友達のお父様がディスプレイのデザインをされていたので、その方にお給料を払って協力してもらったりしました。

学生時代からすごくアグレッシブだったんですね。

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