黒川文雄のエンタメ異人伝  vol. 6

Interview

乙女ゲーム生みの親 襟川惠子氏(下)波瀾万丈を越えて革新的VR、その先へ

乙女ゲーム生みの親 襟川惠子氏(下)波瀾万丈を越えて革新的VR、その先へ

音楽、映画、ゲームなどを総称するエンタテインメントは、人類の歴史とともに生まれ、時代に愛され、変化と進化を遂げてきました。 そこには、それらを創り、育て、成熟へ導いた情熱に溢れた人々がいます。この偉人であり、異人たちにフォーカスしインタビュー形式で紹介するエンタメ異人伝。 今回は乙女ゲームのパイオニアであり、コーエーテクモホールディングス代表取締役会長の襟川恵子氏(恵は旧字体の惠)にご自身の幼少期から、夫であり『信長の野望』シリーズなどのプロデューサーでもあるシブサワ・コウ氏にまつわるお話まで余す事なく伺いました。

※本記事は3回にわたってお届けするインタビューの最終回です。第1回(上)第2回(中)はこちら

インタビュー取材・文 / 黒川文雄


光栄=起業のキッカケになったマイコン資金は恵子さんから

陽一さんの誕生日にMZ-80C(注7)をプレゼントされたという逸話は大変有名ですが、それはやっぱりアルバイトをされたりしてお金があったんですか。

注7)1979年にシャープが発売したパーソナルコンピュータ。ディスプレイとカセットテープレコーダーを搭載した一体型のハードが人気を呼んだ。

襟川恵子 そうですね。それに身内に子供は私ひとりで誰かが亡くなったら遺産が入ってきたりして、お金には困りませんでした。

陽一さんがマイコンを買いたいと言い出したときはどのように思われましたか?

 

襟川恵子 「夢のような箱がある!」とか言ってきたんです。それがあれば自分で見積もりができると。見積もりなんて普通は頼んだらすぐできるんですが、親の会社の倒産後、再建した会社で信用がなかったですし、見積もりも後回しにされたのでしょう。でも、マイコンがあれば見積もりは自分でできちゃうし、給与計算もできると言うので。給与計算といっても、そのときは社員は一人しかいなかったんですけどね(笑)。

いろいろ大変な時期だったんですね。

襟川恵子 義父は地元の足利にはほとんど借金を残さなかったので、「倒産じゃない。あれは会社整理だ」とよく言っていましたが、とにかく会社を畳んだわけです。それで、襟川が起業しようとなったとき、なかなかお金が借りられないから、私が伊豆の方に買ってあった土地を担保にしたり株を売ったりして資金を出したりしました。昔から株式投資などもやっていましたからね。

株もやられていたんですか。

襟川恵子 祖父や祖母が株をやっていて、祖母が銘柄のことなどをいろいろ教えてくれたんです。「株で損するのはバカよ」なんて言っていましたね。「なんで?」って聞いたら、株は下がったら売ってはダメなんだと。ずっと持っていれば必ず上がるんだって。それはそうですよね、高度成長の時代ですから。

8ヶ月の襟川恵子氏を抱いている祖母

確かに、右肩上がりの時代でしたね。

襟川恵子 だから、それを信じていたんですけど、そのあと下がりっぱなしの銘柄もあり、大変な目にあったこともありました(笑)。そんなわけで株式投資は18歳からやっていました。そのお陰で今でもファイナンスの責任者として多大な利益を上げることができています。めぐりあわせですよね。

白馬の王子様が迎えに来て、その人と結婚するつもりだった

では、陽一さんがゲームを作ると言ったときはどのように思われましたか。

襟川恵子 ゲームは自分の趣味で作っていたんです。市販のゲームを買ってきても途中で止まっちゃったり、反射神経を競う物が多くてつまらないと。学生時代からサイコロで遊ぶゲームとかを作って友人と遊んでいました。それで、自分で作るようになったんですよ。

なるほど。その頃の恵子会長はゲームにご興味は?

襟川恵子 その頃の私は忙しくて、ゲームを作って遊ぶ時間はなかったです。自分でもいろいろな仕事をやっていましたからね。布施明さんを使ったカネボウさんのキャンペーンの仕事なんかも広告代理店さんと一緒にやらせていただきました。
でも、私はそんな風になるはずじゃなかったんです。私は、白馬の王子様が迎えに来てくれて、その人と結婚して大切にされて優雅に暮らすって昔から決めていたんです。それが現実では畑仕事なんかもしていたので、母には「指の形が悪くなるし日焼けする」としかられました。

そんなこともされていたんですか。波瀾万丈ですね。

襟川恵子 襟川が起業して、足利にある彼の祖母の別荘だったところに住むことになったのですが、手入れがされていなくて隙間風とかひどいんですよ。障子も汚いので自分でみんな外して張り替えて、きれいな絨毯を敷いて。庭も荒れ放題だったので整地して煉瓦で花壇を作ったりして。美大出だから何でもやりましたね。

大変でしたね。

襟川恵子 そうして、いろんなものを作ったりしていたんですが、どうしても抜けない木があったんです。根が張ってしまっているからノコギリで一生懸命ギッコギッコやりましてね。やっと抜けたと思ったら木を抱えたまま一緒に倒れちゃいまして。その木が体の上に乗っかって動けなくなっちゃったんです。重いからどうにもならなくて、「困ったな、どうしよう……」って空を見上げていたら従業員が帰ってきたんですが、私を見て「奥さん何してるん?」って(笑)。バカじゃないのこの人は、木を抱えて倒れて動けないのに早く助けないとと思わないのか、と。逆恨みです(笑)。そんなこともあって流産したりして。

ええっ!? そんなことになっちゃったんですか?

襟川恵子 はい。もう色々ありました。他にも、万年寝不足で台所で洗っていたらタワシの先端が取れて落ちてしまったので、ボーっとしながら拾おうと思ったら、それがタワシじゃなくってムカデ? 生まれて初めて見るムカデに「ギャーーッ!!」って叫びましたね。そうしたら襟川が「うるさーーい!」って怒鳴って。もう何という人でなしだと。

それはビックリしますよね。

襟川恵子 でしょう? しかも、それ1回じゃないんです。食器棚に手を入れたら野ネズミですよ。ネズミは可愛いですから、そんなに怖くはないですけど、サーっていきなり手の上を飛び越えて、「ギャー!!」って。庭にも大きなヘビが出るし、しょっちゅうギャアギャア言っていたのですが、そのたびに襟川は仕事をしていますから「うるせえーっ!」と怒鳴るわけです。もうアタマにきて「離婚だ、離婚!」って荷物をまとめて日吉に帰ったこともありました。

本当にいろいろあったんですね。

襟川恵子 無給で会社を手伝い、子供を育てながら自分の仕事もして。若いから出来たのですね。彼が病気になって入院した時は、手術で輸血させたくなくて、夜にスープを作って毎日届けて、朝はトラックに乗って荷物を配達したりとか……。白馬の王子様が迎えにきてくれて、優雅に暮らすはずがどうなっちゃったんでしょう。だから人間なんて分からないものですよ。全ては修行で、今では良い思い出です。

でも、これだけ会社が大きくなって、ある意味かなったとは言えませんか?

襟川恵子 いえいえ、まだまだ。世界No.1になっていません。

そういうものですか。ゲームのソフトを出すようになったとき、絵のデザインなどをされたそうですが、それはご自身から率先してやられたのでしょうか。

襟川恵子 美大でしたからデザインはお手の物ですし、仕事でもずっとやっていましたから。襟川は光栄の仕事をしながらのゲーム作りでしたから、宣伝や営業も私がしていました。昔からいろいろな仕事をしていて取引条件のことなども分かっていましたし。でも、好きだからどうとかではなく、ただただ生活のためでしたね。取引先が倒産したり、あの当時は本当に生活していくのが大変でしたから。

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