ALFA MUSIC LIVE Special

ALFA MUSICという異端児、その真実

70年代~80年代の日本の音楽シーンで、 最もラディカルかつインディペンデントでありながら、 最もメジャーを凌駕した伝説の音楽集団・ALFA MUSIC/ALFA RECORDSの 奇跡の軌跡を探る!

時代の道標(signpost)となった
レコード会社&レコード・レーベル

text: 佐伯 明

〜アルファ・レコードの場合

アナログ盤=レコードに魅せられて50年ほど経つが、よく振り返ってみれば、レコードを購入する以前に“ソノシート”と呼ばれるものを、幼少の頃、よく買ってもらっていたなと、思い出す。
ソノシートという呼称は、㈱朝日ソノラマの商標であったから、一時期は“シート・レコード”などとも呼ばれたが、現在はソノシートで定着。一方で生産は10年前に終了し、あのスケルトン・レッドやブルーの新品は、よほどのことがない限りお目にかかれないこととなった。

食品用ラップ・フィルムを数枚重ねたくらいの厚さのソノシートは、通常のレコード(塩化ビニール盤)よりも薄く〜はっきり言ってペナペナ〜かつ安価であり、子供の頃は、円谷プロダクションの“ウルトラ・シリーズ”などの主題歌やTV放送の再収録〜もちろん音声のみ〜を再生して、悦に入っていたものだ。

小学校の高学年にもなると、小遣いやお年玉を貯めて塩化ビニール盤が買えるようになる。最初に購入したLPレコードは、ザ・ビートルズの『LET IT BE』(1970年)だったが、その時初めて、かの“緑色のリンゴ”が、盤面中央に貼付されているのを目の当たりにする。緑色のリンゴの正体が、ビートルズが1968年に設立した自分たちのレコード・レーベル“Apple”であることを知るには、そののち数年が必要だった。

ともあれ、緑色のリンゴを矯(た)めつ眇(すが)めつ、プレーヤー(ターンテーブル)に塩ビ盤を乗せ、ゆっくりと針を下ろし、ブックシェルフ型スピーカがコーン紙を震わせながら音を出していく“一連の行為現象”は、僕にとって至福の時間になっていった。

アルファベット“M”がデザイン化され盤面中央に貼付されたモータウン・レーベル(US)、海と太陽と椰子の木がドローイングされたアイランド・レーベル(ジャマイカ)、白い羽根の天使が真っ赤な空に浮かんでいるスワンソング・レーベル(US&UK)など、おびただしい数のレーベルが勃興と消沈を繰り返しながら、現在に至っている。

一方、日本に目を転じてみると、最も古い日本コロムビア(レコード会社)が日本蓄音機商会を発端にしていることが、ある種の原型となり、レコード会社は、ソニー、ビクター、東芝などの電機メーカーが持つソフトウェア事業(会社)という構造が基本形となった。
もちろん時代は推移し、現在では母体が電機メーカーではないレコード会社も多く、また、東芝は2007年にソフトウェア(音楽)事業から撤退している。

レコード会社とレコード・レーベルを同一視することも、当然のこと可能ではあるけれども、半ば無理矢理に比較検討する時、レコード・レーベルは、巨大化し旧態になりつつあるかもしれないレコード会社に新風を吹き込む1セクションというのが、わかりやすい位置づけだと思われる。

そして、新風を吹き込みつつレコード会社にまでなってしまったのが、1977年に設立されたアルファ・レコードである。設立者は、村井邦彦氏であり、今ではサッカー日本代表チームの応援歌としても認知されている「翼をください」を筆頭に、GS(グループ・サウンズ)からニュー・ミュージック黎明期の有名曲を多数作曲した人物だ。アルファ・レコード設立以前から、まだ美大生だった荒井由実(現在は松任谷由実)をプロデュースし、さらにはYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)をテクノ・ミュージックの覇者として世界的存在に押し上げていったことは周知の事実。

そしてまた、アルファ・レコードはハーブ・アルバートやカーペンターズを輩出したA&Mレコードの販売権を当時取得しており、1982年にA&Mレコードと契約していたビル・ワイマン(言わずと知れたザ・ローリング・ストーンズの初代ベーシスト)にソロ・アルバム発表時に電話インタビューできたことが、個人的にアルファ・レコードに関する最高の思い出だ。

まだ、ワイマン氏はストーンズに在籍中であったから、僕はストーンズのことばかりを聞きたかったのだが、ワイマン氏が雄弁に語ったことは、画家のマルク・シャガールのことと、(チャック・ベリーを輩出した)チェス・レコードのことだったと記憶している。A&Mレコードは、その後もポリスやジョー・ジャクソンのヒット曲を送り出し、総合的なレコード会社になっていった。

原点としてハーブ・アルバート&ティファナ・ブラスを大きく売りだそうとして設立されたA&Mレコードは、言うなればインディペンデント(独立系)レーベルだったと言っていい。
そのA&Mレコードの発売権を取得し、アルファ・レコード自体もインディペンデント系の魅力を周囲に振りまきながら、赤い鳥やユーミンを始点にしつつも、サーカス、カシオペア、シーナ&ザ・ロケッツ、YMOとより総合的なレコード会社になっていく(A&Mに似た)シンクロがあるのも、とても興味深い。

こうして見てくると、70年代の初めから80年代の終わりにかけて、(前身のアルファ・ミュージックを含め)アルファ・レコードは、音楽的に一時代の道標(signpost)になったことは明白であり、前述した「翼をください:赤い鳥」やYMOの先駆的音楽遺産は、今も輝きを失ってはいない。

そのアルファ・ミュージック&アルファ・レコードに所属したバンド&アーティストが一堂に会する音楽イベントが、9月27日と28日におこなわれる“アルファミュージックライブ”@東京・Bunkamuraオーチャードホールだ。

開催にあたり、当Web Siteでは、このライブ・イベントを多角的に取材していくつもりである。ぜひとも、期待していてください。

ALFA MUSIC伝説のエンジニア
吉沢典夫インタビュー

「A&Mのような温かい音を創りたかったんです」(吉沢典夫)

ALFAの創始者、村井邦彦が他社から引き抜いたエンジニア、吉沢典夫。荒井由実(現 松任谷由実)からYMOに至るまで、 レーベルのサウンドの基礎を固めたのは、この男だと言っても過言ではない。革新的な音創りの秘密の数々。
そして村井が契約した珠玉の洋楽レーべル、それが偶然にも吉沢が敬愛するA&Mだった。
洋楽と邦楽のあいだで、レコードの音響にこだわり続けた吉沢エンジニアの歴史を聞いた。

―時間軸を戻して、吉沢さんに語って頂きたいんですけど。最初はエンジニアとしてアルファにお入りになったんですか?

吉沢:いや、そうじゃなくて。僕はもともとね~ビクターなんですよ。

―そうなんですか。

吉沢:で、村井(邦彦)さんと会ったのも、ビクターの・・・古い話になっちゃうんだけど・・グループサウンズ時代。村井さんがザ・テンプターズの作曲をやってたんですよね。それで、大ヒットして、(何かの雑誌で見たんだけど)、村井さんが「これで音楽の仕事をやっていける」と思ったという、その曲(おそらくは「エメラルドの伝説」‘68年リリース)で自信を持ったという話なんだけど、それを担当してたんですよね。その時、僕も村井さんのことをあまりよく解らなかったけど、僕のビクター在籍中に、アルファミュージックが最初に設立した〝マッシュルームレーベル〟があって。コロムビア・レコードの中にね。で、GAROとか小坂忠、あの辺を僕はバイトでやってたのね。それで、ずぅーと繋がりがあって。

―その時、吉沢さんはバイトで何をやってたんですか?販促ですか?

吉沢:違うよ。もちろん録音、エンジニアとして。だって僕はずっとエンジニアだもの。その当時は(バイトでは)珍しかったけど。村井さんはディレクターの本庄さんと一緒に組んでた訳。

―コロムビアの?アルファの?

吉沢:ビクターの。ビクターの中には邦楽部とRCAとそれから・・その他フィリップス関係もあった訳。それら各洋楽も全部邦楽をやり出した。それで、フィリップスには本庄さんというディレクターがいたんだけど、その人が村井さんなんかの曲をディレクションしてたりして。その中にミッキー・カーチスさんもいた。それで結局、フィリップス関係のエンジニアを僕が担当することになったんだけど、それからのお付き合いで、録音も手伝ってくれということで、マッシュルームの制作現場に関わったんです。ビクターの仕事終わってから夜中に他のスタジオで、アルバイトしに行っていた。

―ずっとレコーディングしてたんですか?

吉沢:そう。だから結局はビクターの音楽の創り方と、アルファの音楽の創り方が全然違うから、面白かったのね。

―どう違っていたんですか?

吉沢:全然違いますよ!創り方が。結局、ビクターがやっていたレコーディングは、基本“書き譜”を元にしたものでしょ。だけどアルファの細野さんとかがやってるのは、書き譜じゃなくて、その時のフィーリングで・・基本パターンはあるけど、それこそドラムなんかは一発で録音するみたいな雰囲気ですよ。だからアルファの録り方は、マルチ的な録り方ね。そこがビクターとは違った。アルファで夜中レコーディングして、それでまた僕は朝9時にビクターに出勤して行ったんだよ。ビクターでは、フランク永井から童謡からクラシックまで、何でも録音したよ。録音部に所属するエンジニアって、それが仕事だったからね。ビクターみたいなメジャーな会社は、(当時は)仕事が早めに終わってたから、夜中、他のスタジオ行ってアルファの仕事やって(笑)。面白かったなー。マッシュルームレーベルに所属したアーティストの作品は、ほとんど僕がレコーディングしてた。

―では、GAROとかの作品もみんな録ってたんですか?

吉沢:勿論。だからボーカル(大野真澄)なんかも凄く親しいし。・・・村井さんがある時「スタジオを作りたいね」という話をして・・アルファのスタジオを作る最初の時ね。したら、それが実現しそうなので、「吉さん、会社(ビクター)を辞めてこっち(アルファ)に来て」なんて話になっちゃって(笑)。で、「(ビクターの)部長にどうしても僕が必要なんだって説得してくださいよ」って村井さんに言ってもらって。というのも僕も、先輩が(仁義を切らずに)ビクターを辞めて出入り禁止になっちゃったのよ。それを見てる訳。だから、ビクターも出入りしたいし、色々な技術的なことも知りたいからね。で、村井さんに「部長が納得したら行きますよ」って話した。結果、晴れてアルファにエンジニアとして入ったんですよ。

―ビクターのスタジオは、16chだったんですか?

吉沢:当時はねぇ・・・いや16chまだなかったんじゃないかな。

―でも、アルファのスタジオAは当時最新鋭だった24chがあったんですよね?

吉沢:それが・・・一番最初アルファは16 ch仕様で全部創ってた。というのもその当時、マルチを日本で考えると16 chしかない。ところが外国は24 chが出来てた。結局16 chの仕様でアメリカへ機材を買いに行ったんですが、向こうではもう24 chを作ってる。じゃあ24 chくれって言った訳。でもアルファはお金が16 ch分しかなかった(笑)。じゃあ16 ch仕様でいいから出来たら早く送ってくれって言ったら、24 ch仕様で送ってきたの。フル装備で。だけど、結局8ch分は日本の代理店が返してくれって言うことで変わっちゃった。だってお金16 chしかもらってないんだから。まあ、仕様は全部できてるから、後はカードを入れるだけでいいってやつだから、すぐ24 chにしましたけどね。

—面白い(笑)。

吉沢:ハイ・ファイ・セットかな・・サーカスか・・どっちかだったけど、ロサンゼルスのA&Mスタジオで、録音したのね。もうA&Mスタジオは24chの仕様になってるから、それ用のテープを使ってる。だけど、アルファ(日本)には、まだ16ch仕様しかない。村井さんもいい加減な人でね、「24 chのテープがそっち(日本)に行くから、機械を調達して」なんて、急に言うわけよ(笑)。MCI社の機材だったら、24chに対応できるって言うんで、僕はあまりMCI好きじゃなかったんだけど、しょうがないよね~テープが来ちゃうんだから。そういう経緯がありましたね。

―そのA&Mスタジオ的な音と、吉沢さんが特にニューミュージックとして録った音は似てますよね?

吉沢:そうですかね。僕がアルファに入ったころは、主流がアメリカ・サウンドだった。ロス関係のね。その後、主流はニューヨークのサウンドになったり、イギリスのサウンドになったり変わって行くんだけど。僕らの時は、まずロサンゼルスの音ですよね・・

―ウエストコーストのね。

吉沢:そう。ウエストコーストのサウンドでね。僕はA&Mのレコードは、もうアルファがA&M(の販売権)を取得する前に、キング時代からいろいろと買ってる訳。でJAZZにしてもクリード・テイラーというプロデューサーが、凄い好きでね。出てくるアルバムを待ってるくらい。そしたら、ある日の夜中、村井さんから国際電話で「吉さん、A&M取ったよ~!」って(笑)「えぇぇえっ~」って話になっちゃって、これもすげぇーなって。

―で、アルファと言えば、最初に荒井由実をヒットさせたということで歴史的にも有名なんですけど。ユーミンのレコーディングはどんな風に・・細野(晴臣)さんからリクエストとかあったんですか?

吉沢:そうじゃない。僕は村井さんから一任されてたから。村井さんが、全部「吉さんがやれ」ってことだったんだけど、仕事が凄く多くなっちゃって。結局はユーミンもやってるし、YMOもそのうち絡んできたし・・だから一応振り分けたけどね。でも、なるだけ僕がやるように。村井さんが僕のサウンドを求めてたのかどうかは知らないけれども、多分そうだったと思うんだよね。だからなるだけ僕がやるように努力しましたよね。
ユーミンも必然的に僕がやらないといけないという感じ。プロデューサーの有賀恒夫君も、ビクター時代に知ってるんですよ。顔は知ってんの。仕事はやったことないんだけど。でもちゃんとしたプロデュースやってないから、ディレクターをやってないから、いろいろ僕が教育したよね。僕は先輩だから。だから、やらざるを得ないくてやっているって感じでしたね。でも、やって面白かったよ凄く、ユーミンは。

―楽曲にどのような印象をお持ちになりました?

吉沢:僕はユーミンの曲は全部好きよ。詞がいいんだ。勿論曲もいいけれど、詞と曲がマッチしてるけど、詞にともかく惚れたよね。ヴォーカルに関しての録音は大変だったけどね。。

―その当時はキャラメルママの演奏を1トラックずつ使っていって、バックトラックを作ってからヴォーカル入れしたんですか?

吉沢:そうそう、結局ユーミンが、今でこそ歌が上手いけど、あの当時はあんまり上手くなかったから、ヴォーカルトラックを一杯作らなきゃなんない。16chでやってるわけで、半分は・・オケはフルで使っちゃって、残り2chくらい残しておく訳。それをミックスして、なるべくそっちにまとめちゃって、それで凄く音質は悪くなる訳よ、オケの音は上がるけど。で、残ったchを全部ユーミンのために開けておくの。

―ヴォーカルのためにね。

吉沢:それで1本にセレクトして、まとめて・・スイッチングをした。今でこそ簡単だけど、当時はいちいち切り換えなきゃなんなくて。いいテイクだけピックアップして、有賀君がうるさいから、それ専用のノイズが入らないような機械までうちのエンジニアに作らせて・・・大変だった。細かいパンチングすると、スイッチのノイズがチキチキッと入っちゃうの。それが無いように、エディットなんかを使って機械を作れって言って、うちのメンテナンスに作らせて。で1本にまとめてって形だよね。

―ヴォーカルトラックを1本にまとめるのは大変ですね。

吉沢:大変。至難の業。だから、ヴォーカルトラックを1本にまとめると感情的な部分がが無くなっちゃうかもしれないね~。それは自分は嫌だったんだけど、ディレクターの有賀君とかがね、音程にうるさい人だったからね。

―ブレッド&バターのお二人も言ってました。「ちゃんと音程を取れ」と有賀さんに言われたって。

吉沢:ユーミンは泣いてたね。僕はパンチングすると、音楽的に感情が無くなっちゃうような気がするんだけどね~。

―その他に吉沢さんがご苦労なさったレコ―ディング現場ってありますか?

吉沢:それはなんてったってYMOでしょう。YMOはだって、海外ツアーまで行ってるから。

―で、マルチを廻してたんでしたっけ?

吉沢:うん。あの~なんだ、一番最初は・・・・・ロンドン~ニューヨークだった。それでパリだね。で、また戻ってきてロンドンか・・。だから僕が録音が出来なかったのはアメリカだけだね、エンジニアのユニオンがうるさくてね。アメリカはユニオンに入ってないと仕事しちゃ駄目なんだって。録音は、ミック・ジャガーが考案したザ・ローリング・ストーンズのモービル・スタジオで・・ストーンズの中継車があるんだよね。それで全部廻ってたね。フランスまで。その間に、ユーミンが歌入れあるっていうんで、YMOのツアーが空いてる間に、とんぼ返りして(RECして)、すぐまた戻って・・・1週間“時差”で繰り返してたよ。最後には他の仕事がいろいろ忙しくなっちゃって、抱え込んじゃってたし、管理職だし。それで、後輩の小池に後半のYMOは任せた。YMOはあまりに待つ時間が多いんで(笑)。

―YMOはセッティングに時間がかかるんですか?

吉沢:いや~駆け引き・・いろいろ・・・試行・・・譜面があって無きような世界でしょ。反面、ユーミンなんかは書き譜に近い。曲は出来てるしさ、詞もあるしさ。YMOは譜面があるようなないような世界だから(笑)、スタジオでみんなで作る訳よ。その間、待ち時間というのが、結構ねぇ(←遠い目)。僕がYMOやった時、すごく感動したのは・・それまでシンセサイザーが入ると、シンセサイザーだけポンって浮き出てたじゃないですか。それがYMOの場合は、アナログとデジタルの融合というのかな、あんなぴったり、デジタルらしくないアナログサウンドになってましたよね。だから「こんなサウンドをエレクトリックで出来るんだぁ」って、感動しましたね。
それまではあの機械・・なんて言うんだっけ・・

―あっ、ムーグっていうかモーグ。

吉沢:ムーグ!そうそう、ムーグサウンド。あれが邪魔してた。ほんと、YMOはアナログとエレクトリックの融合ですよね。違和感が全然なかった。

―逆にその、楽ということではないですけど、楽しかったレコーディングで覚えてることはありますか?

吉沢:そう言われるんだけど、みんな楽しかったのよ~

―そうですか!

吉沢:ほんと楽しかったね。だから現役を辞めるのが大変だったのよ。自分で(笑)だけど僕が一生懸命頑張っちゃうとさ~下の人が十何人もいるんだからさ、それはかわいそうでしょ、みんなに少しずつ仕事を分けて、なるだけ手を引いていって。管理の方が結構忙しかったから。
あの、よく覚えているのは村井さんが細野さんと密接に組みたがったんで、「細野さんのためのスタジオ作ってやってくれ」って指示されて。じゃあ、細野さんの意向を全部聞いて、機材にしても、レイアウトにしても。そこに立花ハジメさんと(高橋)幸宏さんが入ってきて、3人でやって。立花さんがデザイン関係なんか全部やってたけど、デザインしたものを建築家と話しさせて~機材関係はともかく当時はヨーロッパ関係〜どっちかというとイギリスサウンドが主流だったんだね。だからアメリカの機材は駄目。全部ヨーロッパの機械を入れてくれって話になった訳。でも限られちゃうんだよね、ヨーロッパだと。だから日本で初めて入れたような機械も入ったよね。スピーカーとかマルチテープはスチューダーがあったんだけど、デカいから細野専用スタジオには入らないし……思案したよ。

—それが音羽のLDKスタジオだったんですね?

吉沢:そう。細野さんが、そこで寝泊まりまでできるようにしろっていうんで(笑)。それでヨーロッパのトライデンというコンソール入れたんだよ。これも結構音が良くてね。あまり大きなコンソールではなかったんだけど。そういうことも指令されましたね。

―吉沢さん個人で好きな音の傾向はどんなものなんですか?

吉沢:うーん、やっぱりA&M系だろうね。具体的に言えないけれど、ともかく暖かい音を創るということが基本ですよね。アルファがスタジオを作る前は、体育館みたいな、味も素っ気もないようなスタジオが多かった訳。そこで村井さんが、「こういうスタジオで録音してもいい音は録れないよね」って話になって。で、アメリカに行っちゃおう!と(笑)。それが、アルファの原点のような気がするね。

—ということは、A&Mとアルファが契約したことは、吉沢さんにとっては奇跡的なことだったんですね。

吉沢:奇跡だった!僕が初めて「契約取れた!」って話を聞いたんだもん、国際電話で。それに、僕はA&Mのレコードは常に買ってたもん。

―吉沢さんにとって、アルファ最良の想い出って何ですか?って聞かれたら?

吉沢:アルファね~僕は好きなようにやらしてもらったからね。金にも厭わず。スタジオ作った時も金はいくらかかったか解んないね~。でも全部稟議が通っちゃうんだよ。よくあのお金が出たなぁって(笑)。機械にしても何にしても、真っ先にあれを買うとか・・全部稟議通っちゃうって・・稟議で1回も落ちたことないんじゃないかな~いかに信頼されてかたって思うよ。だから、僕にとっては、全部がいい思い出ですよね。

―なるほど、いいお話をありがとうございました。

吉沢:ちゃんとした話しじゃなくて、すみませんでした。くだらない話で。ありがとうございました。

吉沢典夫(よしざわのりお)プロフィール

●1945年東京都生まれ。ビクターレコードのエンジニアを経て、 アルファ・ミュージックに移籍。荒井由実、GARO、小坂忠に始まり、YMOに至るまで、ALFAサウンドの礎を築いた。現・エイエステイ マスタリング スタジオズ代表取締役。

ALFA MUSIC LIVE リハーサル現場へ潜入

ブレッド&バター

「音楽活動の中の、アルファ時代が一番大切な時だったと思います」(ブレッド&バター:岩沢幸矢)
 
ライブ直前のリハーサルで取材に応えてくれたブレッド&バターの二人。
当時の“湘南の不良兄弟”は、年月を経ても、まさに“あの頃のまま“だった。
荒井由実をはじめ、様々なアーティストとの邂逅、ALFAというレーベルへの想いを語る。

<ブレッド&バター>
・岩沢 幸矢(いわさわ さつや)
・岩沢 二弓(いわさわ ふゆみ)

―お二人がブレッド&バターをやり始める時に、モデルになったものというのはサイモンとガーファンクルですか?

幸矢:解りやすくいうとそうですね。だけど、あの頃デュエットがはじまって、いろいろといたじゃないですか。〝シールズ&クロフツ〟とか、〝チャド&ジェレミー〟とかいろいろいて、ああいうデュエットが面白いかなと。だから勿論サイモンとガーファンクルが一番解りやすいんですが。僕は、サイモンとガーファンクルを見たんですよ、1967年か68年に、カーネギーホール@NYCでライブがあって。それでいいなって。二弓が既にバンドやってたもので、どう?って聞いたら、彼もちゃんとサイモンとガーファンクル好きだったみたいです。

―だと、お兄さんである幸矢さんが誘ったって感じですか?

幸矢:まあそうでしょうね、二弓はバンドをやってたから、その中に僕が入っちゃったんですけど。結局、メンバー全員でやるって、なかなかレコード会社も了解してくれないし、難しかったんですけど、二人だったら和製サイモンとガーファンクルとかって打ち出しもできるだろうと。

―大所帯ではないし。

幸矢:二弓のバンドのメンバー達は、ほんとに将来ってことを考えてなったかもしれないし、かといってじゃあ僕らはどうか?って言ったら、僕らも何も考えてなかった(笑)。

―二弓さんはいかがですか?誘われた時は?

ニ弓:どっちかというと僕らのバンドに(兄さんが)入ってきたっていう感じだった。僕はそのバンドで本当はやりたかったんです(笑)。でも、筒美京平さんのオーディションを受けたら、結局二人になっちゃった。デビュー曲が筒見さんなんです。

―二弓さんは、どういうタイプのバンドやっていたんですか?

二弓:一番好きだったのは、ラヴィン・スプーンフル。イーストコーストのバンドが好きでしたね。ウエストコーストよりも。

―イーストの方、US東海岸の方が。

二弓:そうですね。僕ら、所謂、湘南の田舎者じゃないですか。だから、「都会に憧れた」みたいな、そんな感じです。

―僕なんかはブレッド&バターに、湘南のセレブなイメージがあったんです。ソフィスティケイトされた。

二弓:(笑)

―御兄弟だから、ハモった時の声の奇麗さを筒見さんとかは、解ったんでしょうね。

二弓:ですかね。僕たちのコーラスの声は、特にエコーなんて入れると、もう自分たちも解らない位に声が似ちゃいますね。ほんとはかなり違うんですけどね。

―それぞれに歌うと違いますよね。

二弓:そうなんですよ。だけど二人で歌うとピシッと合うんですよね。

―アルファミュージックに所属している時の想い出っていうのものはありますかね?

二弓:思い入れですか?

―思い入れもそうだし、想い出も。

二弓:想い出で一番強いのは、僕らは、最初に入った時に“湘南の不良”って言われて。有賀(恒夫)さんという方にけっこう厳しく音楽トレーニング的なものを受けたんです。それまで僕たち二人で、いい加減にレコーディングしてたし、自分たちの好き勝手やってたんですけど、有賀さんに付いて、初めてプロデュースしてもらうみたいな。「きちっとやれ!」って音程のことばっかり言われて、あげく喧嘩もしちゃって。それで半年くらいブランクがあって。「駄目だから、あいつら湘南の不良だ~」と言われ続け(笑)。そんなことがありましたね。

―そこで特訓を受けたんですね。

二弓:そうですね。はじめてちょっとまじめにやったみたいな。

幸矢:僕的に思うことは、僕らずっと40何年やってきてアルファ時代っていうのがあって、あそこで“海・三部作”っていうのを作ったんです。有賀さんと制作したんですけど、音楽活動の中の、アルファ時代が一番大切な時だったと思います。あの時代があったから、すっと音楽をやってこれたって感じがある。あの時代に、夕暮れ、湘南、海とかそういうようなテーマがあったから、所謂、僕らのパターンというか、僕らってものを形成されたのはアルファ時代だと思うんですよね。

―例えばお二人の「憂鬱」って曲は作詞がユーミンじゃないですか。そのファミリアというか、家族めいたミュージシャンの交流みたいなものはあったんですか?

幸矢:そうですね、ユーミンとは、やっぱり彼女の実家に行ったことがあるくらい。それから僕らの住んでいた湘南にも彼女が遊びに来てくれたこともあったし、彼女はアルファを通して知ったわけですが、アルファ時代の大切な一人ですね。

二弓:やっぱり同族っていうか、アルファは特にそうだったんですけど、細野(晴臣)さんとかYMOとか。みんななんかカッコいい、都会的な人たちがたくさん集まってきた。だからちょうど僕たちもそこに入れて良かったな、と。ユーミンもいたし。だから同族な感じがすごくしますね。

―で、今回、村井(邦彦)さんのアニバーサリー・ライブのために皆さん集まって、今日リハをやったわけですけど、どうですか、感触は?

二弓:やっぱり、みんな年季が入っているからうまいなぁって。(笑)音を出して2回位で決まっちゃうもんね。さすがだなって。それで、過去に一緒にやったことのある人たちばかりだし、曲もみんな知っててくれているから、何にも苦労せずにできました。

―ライブも拝見しますので、是非楽しんでがんばってください。

幸矢;はい、ありがとうございます。

二弓:ありがとうございます。

―本日はありがとうございました。

ブレッド&バター( 岩沢幸矢& 岩沢二弓)

1969年「傷だらけの軽井沢」でデビュー。独特のハーモニーでデビュー当初から人気を集める。1970年4月に、「マリエ」がスマッシュヒット。1971年には「ザ・タイガース」の一員であった、岸部シローを迎え入れ三人編成になり、同年4月「野性の馬」をリリース。1972年に岸部シローが脱退し、再び兄弟デュオに戻る。1975年、4枚目のアルバム『MAHAE』をリリース直後に休業宣言。湘南の風のように爽やかに笑って音楽界を一旦去るも、1979年6月、約4年間の沈黙を経て「あの頃のまま」で活動を再開。以来現在までコンスタントに作品を発表し続け、デビュー以来から変わらぬ心地よいヴォーカルとハーモニーで今なお多くのファンを魅了し続けている。

大野真澄(元GARO)

「フォークって言われた時に、僕達はフォークやってないっていう反発があった」(大野真澄)

大野真澄。65歳。もとGAROのボーカリスト。CSN&Yを彷彿とさせるテクニカルな演奏と楽曲で人気を博したが、最大のヒット曲は、皮肉にも、 すぎやまこういち & 山上路夫という職業作家による「学生街の喫茶店」だった。
当時の音楽家としての葛藤と、未だ忘れられぬバンド時代を、ボーカルが語る。

―GAROが出来る時には、モデルになったバンドとかはいたんですか?僕は、やっぱりバッファロースプリングフィールドとか・・・

大野:バッファロースプリングフィールドは「はっぴいえんど」ですよね。

―では、CSN&Yですか?

大野:クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングですね。

―そうか。ということは、アコースティック・ギターとコーラスというのが発想のメインにあったんですか。

大野:基本はそうですよね。「はっぴいえんど」の音を聴いた時、バッファロースプリングフィールドだなぁって思いましたけどね。ジャンル的にはバッファローですよね。

―そこからまた違うテイストを身に付けようと、GAROはした訳ですか?

大野:「はっぴいえんど」は意識していなかったです。基本はCSNみたいな感じですよね。だから1枚目のアルバムは、それ風なものを創ったんですけど、全体がそうなったかどうかは解らないですよね。聴き手がどう思うかですから。僕たちがそのつもりでも、聴いてる方がどう思っているか解らないから。

―でも、やっぱりコーラスとアコギが・・特にGAROの場合はギターワークが、突出してたじゃないですか。

大野:僕を除くメンバー二人は、いわゆるグループサウンズの時代からやってたんですよね。二人ともエレキのリードギタリストなんだよね。メインは歌ではなく、あくまでもリードギター。日高(富明)は松崎しげるのバンド・ミルクのリードギター、堀内(護)は、由美かおるのバックバンド「エンジェルス」のリードギターで、やはり上手かった。どちらかというとロック系。だから僕達自体がフォークって言われた時に、僕達はフォークやってないんだよねっていう反発があった。まあ、当時はアコースティック持って音楽やってると、みんなフォークって言われちゃう時代だったんですよ。僕達は結成した当初から、僕ら3人+サポートメンバーで、ドラムが高橋幸宏、ベースが小原礼でやってました。前半は3人でアコースティックのみでやって、後半はギターをエレキに持ち替えて5人でのライブ。だからクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルの前座を日本武道館でやらせてもらった時も同じスタイルでやりました。

—CSN&Yのカヴァーなどもやったんですか?

大野:そう、当時のお客さんはCSNをよく知っていて、それで盛り上がってくれてね。あれはいい経験でした。その直後に浅間山荘事件がありましたね。1972年の2月の頭頃ですね。「学生街の喫茶店」のレコーディングしたのもちょうどその時期ですよ。世の中が僕らのことをフォークバンドと思っていたかどうか、よく解らない。ただしロックバンドとも思ってなかったみたいなね。僕たちはいろんな事情があって、ヒットした段階で事務所が代わったんですよね。で、事務所が代わった直後に「学生街の喫茶店」が、オリコン・チャートの1位になった。それからTVの仕事がやたらと増えてきましたね。

―「学生街の喫茶店」は山上路夫さんと、すぎやまこういちさんの詞曲じゃないですか。それを聞かせてもらって、出す、レコードにするという時には抵抗みたいものはなかったんですか?

大野:大変でしたよ。そもそも「学生街の喫茶店」は2枚目のアルバムの中の1曲でした。実は東京音楽祭の第1回目に村井邦彦さんの曲で出品したいってことで、村井さんの「美しすぎて」という曲が出来てきました。その後、どういう訳か、2枚目のアルバム全体がプロの作品+洋楽のカヴァー曲ということになってしまいました。そして、その中からA面を「美しすぎて」B面がプロデューサーのミッキー・カーチスさんの提案で「学生街の喫茶店」になりました。このシングルはとても良い作品であったのにも関わらず、発売(72年6月)当初はそれほど話題にならなかったんだけど、どういう訳かTBSの番組でB面が“今月の歌”に選ばれて、(吉田)拓郎がラジオでよくかけてくれたりして、北海道から徐々に火がついていったんです。73年の春先に「学生街の喫茶店」が7週連続1位になったんだけど、その間、僕は病気して入院してました。僕がいないのに、GAROはTVにバンバン出てましたね(笑)。

—アルファ時代の想い出は何かありますか?

大野:アルファは“スタジオA”というのを田町に作ったんですね。それまで僕達は目黒にあったモーリスタジオを使っていて、コンソールは16チャンネルだったんだけど、スタジオAは24チャンネルでした。それでもコーラスは相変わらず一発録りでしたが、再生される音を聞いて「ずいぶんと、ふくよかな音になったな」と感じましたね。新しい機材もいろいろ入ってきて、「へー、ディレイをかけるとこんな音になるんだ?」って、駆り立てられるような時期ではありました。まだシンセサイザーが入ってくるかこないかって時代ですからね。まあ面白かったですよ。

―GAROはプログレ(ッシブ)っぽいとこもあったし、ハードロックみたいなところも音楽性にはあったから。

大野:3人ともビートルズが好きなんですよ。だから、みんないろんな音楽が好きで、向こうのフォーク系の音楽も聴いていたし、映画音楽も好きだったし、CSNももちろん好きだし・・・でも音楽のデパート的なところがビートルズですよね。ビートルズってビートルズというジャンルだもんね。

―そうですね~

大野:ビートルズは何でもやってるじゃないですか。

―そう。ほとんどのことやってますね。

大野:ほとんどのことやってるから、ハードロックからフォークから、ヴォードヴィルからクラシックから全て入ってるでしょ。ミュージシャンってどんな音楽も好きだって人が多いし、そういう人達って結局みんなビートルズを目指してるんじゃないかな?って思うんだよね。

―今日はALFA MUSICのイベントのためのリハですけど、皆さんとリハをやってみての体感というか、感覚は?

大野:凄い上手いバンドだね。だから楽ですよね。今回は、いつものライブと全然違うし、緊張感はあります。リハを最初やった時にちょっと緊張してたんですけど、すぐにほぐれました。知ってる顔が、昔の40年前の顔でしょ。40年前からいる人たちがしっかりいたから、なんかホッとしましたね。

―では、ライブ当日を楽しみにしています。どうもありがとうございました。

大野真澄 Masumi Ohno

1949年10月23日 愛知県岡崎市生まれ

1970年11月、3人組グループ「GARO」を結成。「ボーカル」の愛称で親しまれる。 73年、「学生街の喫茶店」が大ヒットする。同年、日本レコード大賞•大衆賞を受賞するなど、5年間の活動中にオリジナルアルバム8枚、ベストアルバム2枚組1セット、シングル盤12枚を発表するという活発な音楽活動を展開。75年、解散。

GARO解散後の76年にはソロ活動に入る。同時に作家活動も開始。同年、夏、あおい輝彦に提供した 「あなただけを」が大ヒットする。

その後も多岐にわたる、音楽ジャンルでプロデューサーとしても才能を発揮する。現在は東京では六本木スイートベイジルでのソロライブや、数多くのアーティストとのジョイントライブを行うなど精力的に活動を続けている。
その中でも、「伊勢正三•太田裕美•大野真澄」の3人で行っている「アコースティックナイト」コンサートは、各地でチケットが完売してしまうほど好評を得ており、2013年現在180回を突破。今後も全国各地で開催される。

2009年1月14日 デビュー40周年を飾る、初のセルフ•カヴァー&カヴァー曲集「VOCAL'S VOCALS」発売。 同年10月28日には東京・赤坂BLIZにて還暦記念コンサート「AS NOW 〜WHEN I’m 60〜」を、ソロデビュー当時バックバンドを務めていたTHE ALFEEとともに開催。
また長年コンサートでのみ演奏されていた楽曲「ワンパイントのラム酒に乾杯」にリクエストが殺到、還暦コンサートに合わせてCD化され、好評を得ている。

all interview&text:佐伯 明 photo:藤城貴則
(except::吉沢典夫)

ALFA MUSIC LIVE

2015年9月27日(日)・28日(月)

Bunkamuraオーチャードホール

18:00 開場 / 18:30 開演予定

プロデューサー:村井邦彦 総合演出:松任谷正隆

<出演アーティスト>

荒井由実 (松任谷由実) / 大野真澄 (元GARO) / 加橋かつみ / 小坂 忠
コシミハル / 後藤悦治郎 (赤い鳥&紙ふうせん) / サーカス / シーナ&ロケッツ
鈴木 茂 (Tin Pan Alley) / 高橋幸宏 (YMO) / 浜口茂外也 / 林立夫 (Tin Pan Alley)
日向大介 with encounter / 平山泰代 (赤い鳥&紙ふうせん) / ブレッド&バター
細野晴臣 (YMO&Tin Pan Alley) / 松任谷正隆 (Tin Pan Alley) / 村井邦彦
村上"ポンタ"秀一 (赤い鳥) / 山本達彦 (9/28のみ) / 雪村いづみ / 吉田美奈子 他 ※五十音順

荒井由実 (松任谷由実) / 大野真澄 (元GARO) / 加橋かつみ / 小坂 忠 / コシミハル / 後藤悦治郎 (赤い鳥&紙ふうせん) / サーカス / シーナ&ロケッツ / 鈴木 茂 (Tin Pan Alley) / 高橋幸宏 (YMO) / 浜口茂外也 / 林立夫 (Tin Pan Alley) / 日向大介 with encounter / 平山泰代 (赤い鳥&紙ふうせん) / ブレッド&バター / 細野晴臣 (YMO&Tin Pan Alley) / 松任谷正隆 (Tin Pan Alley) / 村井邦彦 / 村上"ポンタ"秀一 (赤い鳥) / 山本達彦 (9/28のみ) / 雪村いづみ / 吉田美奈子 他 ※五十音順

※本公演は、特定のアーティストがメインとなるイベントではございません。 ※出演日の記載がないアーティストにつきましては、両日出演となります。
※出演者及び出演日が変更になる場合がございます。予めご了承ください。 ※未就学児童のご入場はお断りいたします。