ALFA MUSIC LIVE Special part3

partⅢ

ALFA MUSICという異端児、その真実

70年代~80年代の日本の音楽シーンで、 最もラディカルかつインディペンデントでありながら、 最もメジャーを凌駕した伝説の音楽集団・ALFA MUSIC/ALFA RECORDSの 奇跡の軌跡を探る!

松任谷正隆インタビュー
ALFA MUSIC LIVEを振り返って

「音楽プロデューサーは何かと問われると、船の船頭かな。僕は船の設計もやるけど、大工も船頭もやってしまう‥‥」(松任谷正隆)

アルファ・ミュージック・ライブ特集のトリを飾るのは、言わずとしれた“マンタ”こと松任谷正隆。
今回のライブでは演出だけでなく、ティン•パン•アレーのキーボードプレイヤーとしても出演した。
キーボード・プレイヤーから編曲家、そしてプロデューサーへと変貌を重ねた 松任谷の音楽への知識とスキル、そして冷静な自己分析。
音楽家として譲れないこだわりの一方で、計り知れない彼のバランス感覚に 感銘を覚えたインタビューとなった。

―ALFA MUSIC LIVEに関して当サイトでは、リハーサルの時からスタジオにお伺いして、扉越しに漏れてくる音を聴いたりしていたんですけど、今回、“通しリハーサル”にもすごく時間がかかったという話を聞いて、単刀直入に松任谷さんが一番ご苦労されたことは、どのようなところでしょうか?

松任谷:リハーサル時間が短かったことです。普通だったら、全部を3倍はやりたいところですけど、それを1/3でやったということじゃないですかね。

―あらかじめこうなるだろうなという、短いリハーサルの中でシミュレートしていたことはおありだったんですよね。

松任谷:ありますよ。全部そうですね。例えば、セットに関しても、とにかく当日しか仕込みができないから、簡単に吊れるもの、で変換、3ルック、いや4ルック作ったかな、それくらいのルックであること。で、その中に予算もあるから、とってもALFAらしいオープンリールテープをいくつか・・・あれは新たに作ったけど、それ以外はあり物を使いましたから。
あとは・・ライトニング・コンバースという機械を使い、予めライティングをシミュレーションで全部作っておいてやりました。コンバースで作っても、本当の照明とは最終的に誤差があるので修正しなければいけないんだけど、その修正も最小限で済むような・・・色修正くらいで済むものを考えながら組みました。あとはなんですかね・・・おじいさんばっかりだから(笑)、絶対予定通りに進まないだろうなと。予定通りに進まない時のためにどうしたらいいかということばかりを考えましたね。

―危機管理を。

松任谷:危機管理だらけになることは予想できました。僕は、ショーって時間のアートだと思っているので、途中で分断される・・・例えば、セットチェンジが一杯あるから、それで分断されるのが嫌で、ああいう構成にしたんですけど。

―プレゼンターを入れて・・・それで転換の時間を待っているという感じにさせないでということですね。

松任谷:そうですね。

―終わってみて、ホッとしたところはあるんでしょうか?

松任谷:勿論そのリハーサルを3倍やっていれば、もっとディテールまでいろいろ詰められたと思うけど、やっぱりライブの魅力ってある程度荒削りな部分であったり、なんかそういうことを考えると、これで良かったのかなぁと思ってますけれど。1日目は通しも全部出来ていなかったので、4時間近く全く休憩なかったじゃないですか。それはさすがにお客さんのことを考えられてないよなと思って、2日目は間にトイレに行ける時間を作った・・・

―休憩を入れましたね。

松任谷:基本的に僕は一部構成というか、間に何もない構成が好きなんだけど、さすがにやっぱり4時間ではないよなって。そこまで読めなかったのは、リハーサルがあまり出来なかったということだったと思います。

―出演者の順番やセットリストは、松任谷さんからまずリクエストしたんですか?

松任谷:そうですね。僕が一番最初にスタッフにお願いしたのは、時系列に並べたいって。最初にALFAが出来て、どういう風に、どういう人たちが時系列上に並んでいったかと。それは割と簡単に決まった。

―時間を追っていけば良かったということですね。それには何か意図はあったんですか?ヒストリーを見せるという・・・

松任谷:そうですね、やっぱりこれはヒストリーじゃないとつまらないと。

―ちゃんと始めと終わりがあるということで組み立てたということですね。

松任谷:一番最初に「ALFAの歴史みたいなものを書いて下さい」って村井邦彦さんにお願いして、パンフレットに結局したんだけど、あれを書いてもらって。あれを見ながら僕はレイアウトを作っていくつもりでね。でもあれパッと見た瞬間、パンフレットにしましょうよって話に。そしたらそれをタダで、売らないで配るというから(笑)、そりゃ凄いなって思いました。

―あれはかなり精密に、村井さんはお書きになってましたよね。

松任谷:うん、だからあのショーって村井さんの想いがあれだけ詰まっているということですよね。

―村井さんとの最初の出会いって、どういうものだったんですか?

松任谷:うーん多分、(荒井)由実さんの録音の時だったと思いますけどね。他でもきっと会ったことないと思うな~

―アルバム「ひこうき雲」ですか?

松任谷:そうですね。さもなかったら、小坂忠さんのライブレコーディングの時にお会いしてるかもしれない。でもそれはもう覚えてないです。

―松任谷さんの場合は、加藤和彦さんが松任谷さんにオーディションの後に連絡をしてきてくれたって。それで、吉田拓郎さんのレコーディングに行かれてたんですよね。

松任谷:そうですね。

―それは「結婚しようよ」ですか?

松任谷:はい。

―その現場は単純にキーボードプレイヤーとして呼ばれたんですか?

松任谷:そうですね。アレンジャーになっていくのは・・・どうなんだろうな~その後、小坂忠さんと一緒にやるようになって。バンドで一緒にやるようになって、なんかヘッドアレンジのアイデアとかを出すようになって、だんだんとアレンジャーになっていくんです。

―今も松任谷さん、絶対音感お持ちですか?

松任谷:今ね崩れてきたんですよ。

―そうですか。

松任谷:半音くらい狂いますよ。

―この部屋の空調の音とかは?

松任谷:F♯からGの間だと思うけど。

―へえ~なるほど。その絶対音感をお持ちになっていることを、アレンジャーとして活かしたことはあるんですか?

松任谷:まあ、便利なことはありますよね。例えば、昔から人に頼まれて、このコードは何?って聞かれても、オリジナルのキーで解るわけじゃないですか。だからパッと書いてあげて。

―松任谷さんに聴かせれば、全部譜面にしてくれるよとか、コード教えてくれるよとかということですよね?

松任谷:そうだね、でもそれと音楽的なことは全然関係ないから。解るってことだけだから。

―今、松任谷さんがおっしゃった音楽的なことは、アレンジやプロデュースってことですかね?

松任谷:音楽的なこと・・・難しいですね。解析的なことと音楽を創造することとは違うと思いますね。解析するのは、例えば絵具を買いに行って、何色の絵具と何色の絵具を下さいみたいな・・・これは何色ですねとか、こういうところで使えますねとかいうところまでが解析であり、そこで何を書くかということが音楽を作ることですからね。

―作曲者ということに、松任谷さんは興味はなかったんですか?

松任谷:僕は・・基本は作曲者だと思ってますよ。アレンジは全部作曲の一部だと思ってますけどね。

―なるほど。ユーミンのプロデュースが「ひこうき雲」から始まって、ずっと長いキャリアを築いてきた訳ですけど、松任谷さんのキャリアの中で音楽プロデューサーというのが最終ゴールだったんですか?

松任谷:いや、なんでしょうね・・・ゴールではないけど、自分の性には合ってる役割だと思ってますけど。自分は表に出る人間ではないので・・・というか、そういうのが好きな性格ではないので、まあ影で糸を引く方がいいということですかね。

―そういうポジションにずっと興味あるというか、お好きだったんですか?若いころから、矢面に立つような人間ではなくて・・・

松任谷:矢面に立ちたくても、立つとボロボロになることを自分が良く解っていたからじゃないですかね。向いてないという。立ちたくても。

―それは何か決定的な記憶があるんですか?

松任谷;いや、ないけれど、まず・・なんですかね。これも解析になるんだけど、人として、フロントマンの資質ってあると思うんですよ。それは過剰に自己愛が強かったり、どこか過剰な部分あるんだと。僕はないです。

―音楽プロデューサーってなんですかと聞かれたら、どうお答えになりますか?

松任谷:音楽プロデューサーね~なんですかね・・・船の船頭って答えるかな。僕は船の設計と、ついでに大工もやっちゃうけど、船頭もやる。

―願わくは、船頭だけでもいいと思ってますか?

松任谷:船頭だけでもアルバムは作ることはできるけど、でも例えば・・・こんな感じの船でこんなところに行きたいなというのがアーティストだとすると、そこで共同作業した方が、なんか自分のアウトプットだけじゃなくてインプットも出来るじゃないですか。そういう楽しさがありますよね。時にはそれが鬱陶しくなって一人でやりたくなることもありますけど。だからプロデューサーは船頭かな。

―そういうことになりますね、松任谷さんの言葉によれば。過去にディン・パン・アレーのアルバムで、「月に照らされて」っていう曲があって、松任谷さんご自身で歌われているじゃないですか。ああいう自分発の楽曲、もちろん演奏にも加わり歌も歌うということはやってみて、(自分で)違うなってことだったんですか?

松任谷:自分の中には、音楽をある程度いろんな引き出しの中にしまうってやり方があった。その時まで解らなかったんだけど。例えば、自分の中のエッセンスとしてのクラシックとかカントリーとか、自分が辿ってきたいろんな音楽があるわけでさ、R&Bとか。で、その時自分のものをやろうと思った時に、自分個人としては全ての引き出しを開けて、いろんなものをごちゃ混ぜにして出したかったんだけど。例えば「月に照らされて」だと、あれはカントリーの引き出しだった。それが自分でつまんなかった。なんかもっと革新的なことが自分だったらできるんじゃないの?と思ったけど、やっぱりスタイルとか音楽の形っていうのがあって、どこに属するかというと、この引き出しに属するという。

―言いかえると“ごった煮”みたいにならなかったということですか。

松任谷:自分の中では、ごった煮にしたかった。でも、驚き感がなかったし、驚かなかった。まあそんな虫のいいことはできないですよね。

―それが自分ですからね。でも、自分でも疑うような自分の一面というのもあるかもしれないじゃないですか。

松任谷:それが見たかったですね。

―なるほどね、でもやっぱりひとつひとつ自分に対しての解析があってここまで来てるんですね。

松任谷:どうなんだろ。今だから解析できるんですね。ただやっぱり「月に照らされて」が出来上がった時に聴きたくなかったし、なんかつまんなかったですよね。これじゃないなって思った。

―多少自分に失望なされたんですか?

松任谷:もちろん。いつも失望してますよ。

「村井邦彦さんの「美しい星」素晴らしくいい曲なんですよ。決して歌は上手くないんですけど(笑)、すごくいいんですよ。音楽ってそういうものだなと感じました。それが今回の収穫かと‥‥」(松任谷正隆)

―これは個人的な質問なんですけど、ティン・パン・アレーとキャラメル・ママの違いってどこかと聞かれたら、松任谷さんは、どうお答えになりますか?

松任谷:キャラメル・ママはバンドとして、一つの形を作ろうしていたと僕は認識していますね。だから、その中で、リードボーカルは誰かがやり・・・という風なイメージで僕はいました。でもそれが、なんかいろんなプレッシャーになって・・それぞれもっと自由にやろうということになって。僕は僕で(吉田)拓郎の音楽のような全く違うジャンルもやってたし、だったらそういうマッスルショールズのようなものを目指そうというのがティン・パン・アレーです。

―僕から見ると、ティン・パン・アレーもキャラメル・ママもどちらかというとプロデュースチームみたいな見え方をしていたんですけど。

松任谷:それは違いますね。

―キャラメル・ママは、よりバンドであると。

松任谷:バンドを目指しました。キャラメル・ママで3回ステージやってるんですよ。3度だけ。1度だけちゃんとしてたのは、BUZZと(サディスティック・)ミカ・バンドとキャラメル・ママで、中野サンプラザでやったショーがあって。あれがだから、キャラメル・ママが一番キャラメル・ママの時代だったと思いますね。

―それはとてもバンド色が強かったということですね。

松任谷:林立夫がリード・ヴォーカルを取ったり、僕が取ったり、鈴木茂が取ったりしてましたね。

―今まで松任谷さんは、沢山のミュージシャンとレコーディングもライブもやられてきましたが、例えば鈴木茂さんと高中正義さんの違いって言ったら、松任谷さん、どうお答えになりますか。

松任谷:うん、共通点は2人とも不器用なところかな。そうね。違いと言ったら、茂の方が不器用なりにフレキシビリティがある。高中は自分の中にきっと形があるんだろうと思います。例えば1つの音を出した時に、この音じゃ違う、このフレーズじゃ違うというのが高中の中にはある。茂は音を出してみて、これは面白いとか、そういう基準でものを作っていくんですよ。だからいろんなものに可能性を見つけていくタイプで。高中の方が、どちらかというと形があってという。

―なるほど、では、細野晴臣さんと後藤次利さんの違いは?

松任谷:(笑)。面白い質問をしますね。僕は後藤のことをベーシストだとは思ってない。ギタリストですよ。

―へえ~それはどうしてですか?

松任谷:ベース的な発想ってあるんですけど。そういう意味では細野さんもベーシストではない。要するに、(和音の)ルート(に当たる音)を単純に弾いていくようなベーシストではないというところは、2人は似たところはあるんだけど、全く違いますよね。タイプは全く違うんだけど、細野さんはとにかくまず1にも2にもリズムですよね。リズムのアプローチ。そのリズムを作っていくのはベースだけではなくて、サウンドの全体像だというのが細野さん。いろんなものの中でリズムが出来ていて、その中の一部がべースを弾くことだというのが細野さんで。後藤はアグレッシブに、ギターのように、リード・ベースというくらいのベーシスト。だからリズムのこととか全体像はあまり考えていないような気がしますね。そういうところは全く違う。

―では、細野さんは全体像がいつも見えてるんですかね。

松任谷:それはいつも見えてます。で、見えてるし、逆にこっちも解るから、それをやりたくないですね(笑)そしたら、普通じゃんって(笑)。

―そうですね、予期せぬものはないというところでしょうから。

松任谷:なんかそういうところがいつもありましたね。だったら、僕はこういうアプローチでいったらどうかな~みたいな。キャラメル・ママの時代もそうだったし。

―僕が勝手に松任谷さんの名言だと思っているセリフに、「アマチュアの時代と職業作家の時代は交互にやってくる」というのがあるんですよ。今は、どっちだと思いますか?

松任谷:今はアマチュアの時代でしょ。で、ほんとに新しいタイプのプロフェッショナルがいない時代だと思いますけどね。

―新しいタイプのね。それは今までプロと呼ばれていた人のタイプではないプロということですよね。

松任谷:でしょうね。

―それはまだ出現していない。

松任谷:うん・・出現するかどうか解りません。ただ、やっぱりいろんな環境もあると思う。その、音楽配信みたいなこと。例えば、Pro Toolsがただで配られるような時代になって、誰でも発信ができる時代、YouTubeがこういう時代を作っている。だから、今はほんとにアマチュアの時代なんだけど、でもやっぱりこう、絶対的な安心感みたいなものを音楽に求める時がある、来るんです。だからそういう風になった時にそういう時代がくる。

―絶対的な音楽の安心感ね。

松任谷:それって、例えば「イタリアン」というのが出てきたりとか、食べ物でね。イタ飯なんて、だいたい昔はなかったじゃないですか。

―なかったですね。パスタなんて言ってなかったですからね。

松任谷:スパゲッティーですもんね。でもなんかそういうのが出てくるんですよね。もうちょっと昔だとカレーが出てくるとかね。

―洋食の時代とかそうでしょうね。

松任谷:なんか必ずそういうのが出てきますよね。

―・・・確かに絶対的な音楽の安心感っていいコトバだなと思いました。
ではALFA MUSIC LIVE特集の最後に、久々に村井さんとお会いした印象も含めて、松任谷さんの方から村井さんにお言葉を頂けたらと思います。

松任谷:村井さんに対して?
当時の力関係から言えば、当然村井さんの方が絶対的に強いポジションで、僕なんかは、ひよっ子もいいとこで・・・だからまあ簡単に言えば、絶対的な力と、とは言いつつ、僕を育ててくれた人ですから。彼がいなかったら、僕はアレンジャーになれなかった、何の実績も残せなかった、何をやってたかもよくわからない。どっかで生き残ってたかもしれないけど、でも少なくとも今の人生はなかった。という意味では、やっぱり非常に影響力の強い、恐ろしい存在だったんだけど、さすがに時間の経過とか・・・なんだろうな・・・お互い丸くなっていくのか、それとも経験を積んでいくのかということだけど。ふと今回出会って、一緒にやってみたら、村井さんはそんな遠いところにいなかった。なんかこう、遥か別次元に住んでいた人が、実は隣の辺に住んでいたという感じがしましたね。隣に住んでいる人として、今回村井さんの曲を聴いてみたら「美しい星」って死ぬほどいい曲なんだと。あれが僕の今回の宝物ですね。こんないい曲を書く人がいたんだっていう、それが村井さんだった感じです。だから、それが解っただけでも、やれてよかったなと思いますね。

―そこが解ったのは、時間がもたらしたものですかね。

松任谷:時間がもたらして、ニュートラルに作品をそのまま、なんの既成イメージもなく聴けたからだと思う。

―怖い存在としての村井さんが抜けおちて・・・

松任谷:村井さん、歌が下手だなとか思う訳ですよ(笑)。だけど、すごくいいんですよ。そう思えて、音楽ってこうだよね、と思えたことが収穫でした。

―なるほど。松任谷さんの興味深いお話の数々を聞かせて頂きました。ありがとうございました。

松任谷:ありがとうございました。

松任谷正隆

1951年11月19日東京都生まれ。音楽プロデューサー、アレンジャー、作曲家。4歳からクラシックピアノを習い始め、 14歳の頃にバンド活動を始める。20歳の頃プロのスタジオプレイヤー活動を開始し、バンド「キャラメル・ママ」、「ティン・パン・アレー」を経て、数多くのセッションに参加。その後アレンジャー、プロデューサーとして多くのアーティストの作品に携わる。1986年には音楽学校「MICA MUSIC LABORATORY」を開校。2001年4月からはジュニアクラスも新たに開校し、子供の育成にも力を入れている。モータージャーナリストとしての顔も持ち、25年以上にわたり「CAR GRAPHIC TV」のキャスターを務めるなど、自他共に認める車好き。「AJAJ」の会員、および「日本カー・オブ・ザ・イヤー」の選考委員でもある。

interview&text:佐伯 明 photo:江上嘉郁