競輪は怪我や死亡事故もある危険な競技!その原因/死因を徹底検証
競輪は危険と隣合わせ
競輪は、レース中の最高時速が70kmにも達します。
つまり、高速道路を走る自動車とほぼ同じスピードの中で競い合う危険な競技です。
競輪で使用される自転車は、とても軽量でスピードを出すことに特化しています。
ブレーキがなく、回転ロスが出ないようペダルにシューズを固定するようになっているのです。
そのため、もし衝突の危険性があっても急に自転車を止められず、事故を避けることができません。
ひとたび衝突すれば、選手は大怪我を負い、最悪の場合、命を落とすこともあるのです。
今回は、これまで競輪で起きた死亡事故とその原因についてご紹介します。
競技中に死亡した7名のうち5名が事故死【動画あり】
競輪は1948年(昭和23年)に発足し、今日まで何十年も続いてきた競技です。
2008年時点のスポニチの調べでは48件。
ネット上で確認できる代表的なケースはこの7件でした。
氏名 | 事故日 | 競輪場 | 死因 |
---|---|---|---|
福島 昭亮 | 1967年4月30日 | 岸和田 | 頭がい骨骨折 |
東内 典之 | 1992年5月17日 | 福井 | 脳挫傷および 急性硬膜下血腫 |
成島 勇 | 1998年7月23日 | 立川 | 頭がい骨骨折 |
服部 雅春 | 2003年1月3日 | 伊東 | 心停止 |
内田 慶 | 2008年9月11日 | 一宮 | 外傷性くも膜下出血 |
中垣 輝光 | 2010年2月15日 | 広島 | 虚血性心疾患 |
坂本 照雄 | 2012年7月7日 | 小田原 | 外傷性心肺不全 |
死亡した7名のうち5名の選手は、レース中のアクシデントが原因で命を落としています。
これらの痛ましい事故はどのようにして発生したのか、具体的な事例をご紹介していきます。
福島昭亮選手
福島昭亮選手は、埼玉支部に所属していた12期の選手です。
氏名 | 福島 昭亮 |
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登録地 | 埼玉県 |
期別 | 12期 |
出年 | 1937年 |
没年齢 | 30歳 |
デビュー以来、多くの特別競輪に出場し、将来を嘱望されていた選手の一人でした。
- 日本選手権競輪:5着(1964年)
- オールスター競輪:4着(1964年)
- オールスター競輪:5着(1965年)
- 全日本競輪王戦: 7着(1965年)
- 全日本新人王戦: 3着(1965年)
- 久留米記念:優勝(1966年)
1967年のオールスター競輪(岸和田競輪場)でも、ドリームレースのメンバーに選出されました。
そのドリームレースにおいて落車しましたが、その際に頭部に強い衝撃を受けたため、頭蓋骨骨折により帰らぬ人に。
このあともルール改定などにより、安全対策などはJKAの方で講じてきたようですがそれでも死亡事故は続いてしまいます。
東内典之選手
東内典之選手は、和歌山支部に所属していた48期の選手です。
氏名 | 登内 典之 |
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登録地 | 和歌山県 |
期別 | 48期 |
出年 | 1962年 |
没年齢 | 30歳 |
1981年のデビュー以来、11年の間に18回も優勝を重ね、多くの競輪ファンに注目されていました。
1992年5月17日、福井競輪場でのレース中、最終第2センターで前走車に接触、転倒した際に頭部を強打。
病院で懸命な処置が施されましたが、脳挫傷および急性硬膜下血腫のため、帰らぬ人となりました。
生涯成績のうち、失格が20回、競走棄権が31回にも及ぶなど、常に闘争心むき出しでレースに臨んでいる姿が印象的な選手だったようです。
このように攻めの姿勢の選手は優勝経験も多く人気ですが、痛ましい事故にも繋がる危険性を孕んでいます。
成島勇選手
成島勇選手は、東京支部に所属していた76期の選手です。
氏名 | 成島 勇 |
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登録地 | 東京都 |
期別 | 76期 |
出年 | 1975年 |
没年齢 | 23歳 |
1995年8月にデビューし、同年の10月にはプロ初勝利を上げ、これからの活躍が期待されていました。
しかし、デビューからすぐ3年後の1998年7月23日、立川競輪場のレース中、最終4コーナー付近で他選手と接触し、落車転倒。
直ちに救急車で病院へ搬送されたものの、翌日に死亡が確認されました。
死因は頭蓋骨骨折です。
デビューからわずか3年、競輪界でも特に悲しい事故として語り継がれています。
【閲覧注意】内田 慶選手【動画あり】
内田慶選手は、栃木支部に所属していた87期の選手です。
氏名 | 内田 慶 |
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登録地 | 栃木県 |
期別 | 87期 |
出年 | 1981年 |
没年齢 | 27歳 |
2002年にデビューし、2003年のルーキーチャンピオンレースで優勝するなど、当時の若手で最も期待された選手です。
また、内田慶選手は、競輪のみならず自転車競技でも輝かしい成績を残しています。
- 2003年~2008年 全日本プロ選手権 4km個人追い抜き 優勝
- 2004年 アジア自転車競技選手権 4km個人追い抜き 優勝
- 2004年 アジア自転車競技選手権 スクラッチ 優勝
- 2004年 UCIトラックワールドカップ ポイントレース 6位入賞
- 2006年 アジア競技大会 団体追い抜き 4位入賞
夏のオリンピックでメダルが期待される選手でもありました。
そんな内田慶選手に悲劇が起きたのは、2008年9月11日、一宮競輪場で行われた第51回オールスター競輪です。
最終周回の3コーナー付近で他の選手に挟まれ接触、衝撃で前輪のスポークが全壊しました。
その結果、転げ落ちるように前のめりで落車し、顔面を強打したのです。
内田慶選手はうつぶせのまま動けなくなり、救急車で病院に運ばれましたが、クモ膜下出血のため帰らぬ人となりました。
GⅠレース中に起きたエリート選手の死亡事故ということもあり、競輪界が悲しみに包まれたのです。
一宮競輪場は2019年に閉鎖されましたが、現在でも、日本競輪選手会愛知支部の選手により追悼が続けられています。
【閲覧注意】坂本照雄選手【動画あり】
坂本照雄選手は、神奈川支部に所属していた73期の選手です。
氏名 | 坂本 照雄 |
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登録地 | 神奈川県 |
期別 | 73期 |
出年 | 1972年 |
没年齢 | 40歳 |
1994年に念願のプロデビューを果たし、デビュー戦で2着となりました。
同年のルーキーチャンピオンレースでも2着となり、期待の新人選手として注目されていた一人です。
坂本照雄選手の死亡事故は2012年7月7日、小田原競輪場で発生しました。
先頭2番手に付けていた2番車の吉野正彦選手と9番車の長谷路樹選手が接触し、落車転倒。
内側の退避路に大きく転倒したため、後方を走っていた坂本照雄はさらに内側へと進路を取ります。
しかし、ゴール前でスピードが出ていたため、コントロールができず写真判定用の緩衝用マットに衝突。
坂本照雄選手は意識不明となり、救急車で小田原市立病院へと搬送。
心臓マッサージやAED治療が施されましたが、外傷性心肺不全のため帰らぬ人となりました。
ガールズケイリンでは未だに死亡事例はないが・・・・
2012年から開始された女性選手による競輪レース「ガールズケイリン」。
幸いにも、ガールズケイリンでは競技中の死亡事故は未だ発生していません。
男子競輪よりも自転車競技に近いルールであることから、接触事故は少ないようですが、それでも危険は伴います。
最近では、2021年2月に永塚祐子選手が、小倉競輪場で落車し、右鎖骨、ろっ骨、腰椎圧迫骨折という大怪我を負っています。
また、2021年5月には、石井貴子選手が京王閣競輪場で落車し、右肋骨多発骨折及び血気胸という診断を受けています。
ガールズケイリンだからと言っても決して安全な訳ではなく、常に危険と隣り合わせな競技であることには変わりありません。
これからもガールズケイリンで死亡事故が起きないよう、祈るばかりです。
喧嘩走りと呼ばれるほど気性の荒い選手も
競輪は同じ地域の選手などがラインというチームを構成して競い合います。
ラインの先頭を走る選手が不利にならないよう、後ろについている選手が、他のラインをブロックするのです。
例えば大阪の南修二選手などは、喧嘩走りと呼ばれる激しいブロックが有名で、レース中の落車が後を絶えません。
最近は少なくなりましたが、こういった激しい競い合いが原因で、レース後に選手同士が殴り合いになることも。
一歩間違えば命の危険が伴うので、進路妨害すれすれのブロックを受けた選手が感情的になるのも仕方がないと思います。
過去の不幸な事故を肝に銘じて、こういった争いや危険行為がなくなることを願うばかりです。
まとめ
今回は、過去に起きた痛ましい死亡事故についてご紹介しました。
激しい競い合いとスピードが魅力の競輪ですが、悲惨な事故が起きてしまっては、すべてが台無しです。
競輪選手は、結果が収入に直結するため、勝ちにこだわり、ギリギリを攻めることもあるでしょう。
しかし、それは命や健康な身体があってこそだと思います。
選手たちには事故や怪我に注意しながら、プロとして頑張って欲しいと願うばかりです。